時々、魚焼き器の掃除を忘れているときがある。
というのは、私が夕飯で魚を焼いたとき、受け皿を少し開けておくのである。
掃除を忘れないためである。
ところが、妻が後片付けをしたときに、引き出してある受け皿を閉めてしまうのである。
そのため、前日魚を焼いたということを私が忘れていると、魚焼き器は掃除されないことになってしまうのである。
それなら、夜、食事のあとに魚焼き器を掃除すればよいと誰でも思うだろう。
ところが、出来ないといって何もしないでは健康にも悪いということで、夕食後の片づけを妻にしてもらっているのである。
ところが、几帳面な妻は、掃除が出来ない魚焼き器まで少し開けておくことに我慢がならず、閉めてしまうのである。
そのため、ついつい掃除を忘れることが分かった。
魚を焼いたときには、魚焼き器に札でもつけることになるのだろうか。
というのは、私が夕飯で魚を焼いたとき、受け皿を少し開けておくのである。
掃除を忘れないためである。
ところが、妻が後片付けをしたときに、引き出してある受け皿を閉めてしまうのである。
そのため、前日魚を焼いたということを私が忘れていると、魚焼き器は掃除されないことになってしまうのである。
それなら、夜、食事のあとに魚焼き器を掃除すればよいと誰でも思うだろう。
ところが、出来ないといって何もしないでは健康にも悪いということで、夕食後の片づけを妻にしてもらっているのである。
ところが、几帳面な妻は、掃除が出来ない魚焼き器まで少し開けておくことに我慢がならず、閉めてしまうのである。
そのため、ついつい掃除を忘れることが分かった。
魚を焼いたときには、魚焼き器に札でもつけることになるのだろうか。
私は、加藤紘一は総理になるものとして応援していた。
加藤の乱後も、まだ総理の芽は消えていないと思い続けていた。
ところが、先日拉致問題での発言が物議をかもし、やはり、加藤紘一はそれだけの人間だったのかという思いとなっている。
そこで、気になるのが、前原前代表である。
民主党が政権をとったときには、総理にふさわしい人間だと期待していた。
それが、雑誌に論文を発表して、民主党から除籍とまで言われている。
確かに、前原前代表の危惧が分からないでもないが、政権をとる前は詳しい情報も無い中で政策を立案しているのだから、当然不透明な部分もあるはずである。
それよりも、国民の多くが、やはり自民党ではダメで、一度民主党にやらせてみようという風が吹いてきた中で、それに水を差すような発言をするようでは、やはり総理の器ではないといわざるを得ない。
加藤の乱後も、まだ総理の芽は消えていないと思い続けていた。
ところが、先日拉致問題での発言が物議をかもし、やはり、加藤紘一はそれだけの人間だったのかという思いとなっている。
そこで、気になるのが、前原前代表である。
民主党が政権をとったときには、総理にふさわしい人間だと期待していた。
それが、雑誌に論文を発表して、民主党から除籍とまで言われている。
確かに、前原前代表の危惧が分からないでもないが、政権をとる前は詳しい情報も無い中で政策を立案しているのだから、当然不透明な部分もあるはずである。
それよりも、国民の多くが、やはり自民党ではダメで、一度民主党にやらせてみようという風が吹いてきた中で、それに水を差すような発言をするようでは、やはり総理の器ではないといわざるを得ない。
今日は海の日だというが、個人的にはあまり関係がない。
関係はあるが思い出があまり無いといったほうがいいかもしれない。
海無し県である岐阜県に生まれ、就職のために海無し県である埼玉県に来てしまったのだから。
しかしながら、海の日を制定した趣旨は、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う。」だそうだから、海と関係ないことはない。
それにしても、小さいときには、海は無限の広がりを持っているように感じていたのが、大きくなるにつれて、海を小さく感ずるようになったということである。
まず、最初がマグロの水銀汚染であった。
次に、海水の温暖化である。部分的に熱くなるエルニーニョから南極、北極の氷の融解などである。
次に魚資源の枯渇である。クジラの捕獲制限に始まっていわしが少ししか獲れなくなったところまで来ている。
これら次々とあげていくと、無限に思われたあの海も、65億人?というような人間にとってはきわめて小さくなってしまった。
今後は、海は小さいという認識からすべての行動が始まる必要がある。
「海は広いな、大きいな」といったのは昔の話である。
関係はあるが思い出があまり無いといったほうがいいかもしれない。
海無し県である岐阜県に生まれ、就職のために海無し県である埼玉県に来てしまったのだから。
しかしながら、海の日を制定した趣旨は、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う。」だそうだから、海と関係ないことはない。
それにしても、小さいときには、海は無限の広がりを持っているように感じていたのが、大きくなるにつれて、海を小さく感ずるようになったということである。
まず、最初がマグロの水銀汚染であった。
次に、海水の温暖化である。部分的に熱くなるエルニーニョから南極、北極の氷の融解などである。
次に魚資源の枯渇である。クジラの捕獲制限に始まっていわしが少ししか獲れなくなったところまで来ている。
これら次々とあげていくと、無限に思われたあの海も、65億人?というような人間にとってはきわめて小さくなってしまった。
今後は、海は小さいという認識からすべての行動が始まる必要がある。
「海は広いな、大きいな」といったのは昔の話である。