YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

インド人との取引の話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-06 09:12:56 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・インド人との取引の話
 2万円で買ったカメラは、6年過ぎると幾らで売れるのであろうか。良く分らないが、日本の質屋では3千円から4千円程で売れるのか。 それがインドでは170ルピー(8,330円)で売れた。『儲かった』と思うべきなのに後から考えたら、それがその様に思えなかった。如何してなのか・・・。
インドの映画会社は儲かっている様で、(助)監督はポケットから無造作に厚い札束を取り出し、その中からポンと惜しげもなく170ルピーの大金を払った。後で考えたら『もう少し高値で売れば良かった』と後悔した。私は何だか、最初から交渉に負けた気がしてならなかった。
 カルカッタを去る日が近づいた3月5日、テント張りの屋台のお土産屋で、買う目的で眺めていた。15㎝から20㎝程の大きさの象の木彫り物、珍しい石の指輪、その他たくさんインドのお土産になる物を売っていた。店主が「タイガーアイストーン(トラ目の石)は、ここだけにしか売っていない珍しい石だ。」と言うので、私は象の彫り物2個と、トラ目の石の指輪1個を買おうと、英語が話せるその店主と交渉を始めた。
「象の木彫りが1個100ルピーを2個、ストーンは50ルピー、合計すると250ルピーだけどジャパニー(日本人)、値引きするよ。200ルピーで買いなよ。」と店主。
「高いね。」と私。
「それでは180ルピー。」
「まだ高い。」
「150ルピーではどうだ。」と店主。私は値引き交渉を頑張った。
そんな調子で100、90、80、とドンドン値が落ちて来た。こちらも色気が出て来た。「50ルピーなら買うよ。」
「ノー、ジャパニー、ツーチープ、商売やって行けない。70ルピー。This is the last price。」
「それなら60ルピー」。「ノーノー、70ルピー」と店主。
「70ルピー?それなら買わない。」と言って帰る振りをした。
店主は私の進路を妨害し、「待った、ジャパニー。60ルピーでOKだ。」
ついに交渉は成立した。250ルピーの物が60ルピーで買物が出来た。如何してこんなにも割引してくれたのか不思議であった。安い買物をして凄く得した感じがした。
しかし後で気付いた事であるが、珍しい石が偽物で、細工費入れて5ルピー程度であろう。『象の木彫りも下層階級の人が作った物』と考えれば、長くて3日で出来あがるであろう。手間賃1日2~3ルピーとして9ルピー、儲けを入れたとしても15ルピーとして、全部で35ルピーが手頃の値段であった。『あのジャパニー、こんな偽石と象の木彫りに60ルピー出した。バカみたい』とあのインド商人は喜んだ事であろう。
 カメラを「200ルピーなら売る」、そしてお土産を「60ルピーで買う」と言った時点で、私はインド人に負けたのだ。我々日本人は、定価通りに買おうとする習慣が身に付いていた。商品に定価が張ってあれば、疑わずその通り買う。日常の買い物に於いて、我々は『物の価値』、『物を見る目』が完全に欠落していたのだ。インドでは、商品に値段が付いていないので、必然的に物を見る目、物の価値について習得されているのだ。習得されたらそれらを判断基準として、売り手と買い手がお互いに自己主張(値段を張り合う)し合う。インド人は自己主張が強いし、日本人は物の価値・見方を知らないから、必然的に交渉で根負けや、直ぐ妥協してしまう習性がある。そんな訳で、日本人はインド人に負ける宿命になっていたのだ。
こんな事だから外国人ツーリスト特別料金、或は日本人特別料金なる値段が出来、二重三重価格になってしまっている。物の価値、物を見る目が欠落した私(日本人)は、インド人にバカにされても仕方がなかった。インド人にとって1ルピー、2ルピーが如何に重い価値があるのか、分っているつもりで本当は、最後までそれが分らなかった私。私がインドで真っ当な滞在、旅行や買物が出来なかったのも頷けた。

カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話~インドで見た・感じた・経験した事の話

2022-03-06 08:33:11 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
・カルカッタのさらに輪をかけて人口過剰になった話
 1971年(私が訪れた2年後)、〝バングラデシュ独立戦争に伴うインド・パキスタン戦争〟(第3次印パ戦争)が勃発し、再び800万人の難民が東パキスタンからカルカッタへ流れ込んだ。大カルカッタ圏の人口の内、その4割が難民であると言う。
 2001年の年次調査によると、カルカッタの市域人口は460万人、郊外を含む人口は1330万人である。そしてインドの人口は10臆6600万人であると言う(「国際地学協会」参考)。そして2006年9月のNHKニュースによると、『インドの人口は12億人』と発表された。
 因みに私が訪れた1968年は、『インドの人口は6億人』と言われていた。あれ程に〝産児制限運動〟(街の至る所に看板があった)を展開していたにも拘らず、この爆発的な人口増加はどうなっているのだろうか。
 インドの人口は何億人、或はカルカッタの人口が何百万人とか何千万人と言われるが、私は不思議に思った。その理由は、あの延々と続くバラックに住んでいる人々は住民登録もろくにしていないと思われるし、それに物凄いの乞食の数や路上生活者達の数を人口調査にあたり、どの様にしてインド全体でカウントして行くのであろうか、と不思議でたまらない。
 カルカッタは、外国からの観光ツアーのコースからも敬遠されていると聞いている。インド人からも海外旅行者からもそっぽを向かれたカルカッタ・・・。『宮殿の都』と過って呼ばれていたカルカッタは、何処へ行こうとしているのであろう・・・。