・昭和44年3月10日(月)晴れ後スコール(原住民に危うく殺されそうになった)
午前中エイジェンシィへ行ったが、仕事は見付からなかった。私は仕事がないと困るのだ。他国へ行く為の、或いは帰国の為の航空券、若しくは乗船券を買うお金が既に無くなっていた。その様な訳で、月曜日から金曜日まで定期的に働ける仕事が欲しかった。
午後、再び行った。街外れにある倉庫の荷物運びの仕事を紹介してくれた。現場まで歩いて行き、その仕事をこなした。明日又、7時に来てくれと頼まれた。3時間の労働で「4ドルは、明日分と併せて支払う」と言ってくれた。
私が仕事から帰ってきた時、アボサンは部屋に居なかったが、暫らくしてから帰って来た。彼は何処かで飲んで来た様で、少し酔っていた。私はシャワーを浴び、明日早めに出掛けなければならないので、午後9時過ぎにベッドに入った。
一眠りして目が覚めた。『殺気』を感じたのであろうか、目を開けたその瞬間、暗がりの枕元に真っ黒な顔、そして私の首をまさに絞めようと延びて来たその手を見た。私は無意識の内にその伸びて来た手を強く払いのけた。
「何をしているのだ。」と暗がりの中、私は怒鳴った。
「私は酔っている。」と黒い人影。急いで跳ね起き、電気を点けた。私の枕元に原住民のアボが立っていた。
「私の首を絞めようとしたな。」と私。
「ゴメン。私、酔っ払っているのだ。」と再びアボは言い訳をした。
私は急いで部屋から飛び出し、「誰か来てくれ!人殺しだ!助けてくれ!」大声を上げた。はっきり分らないが、時間的には午前0時前後であった。
「人殺しだ!誰か警察を呼んでくれ!」と再び大声で叫んだ。マダムがパジャマ姿のまま、すっ飛んで来た。
「私が寝ていたら、このアボリジニが私の首を手で絞めようとした。私は一瞬気が付いて払いのけたが、危ない所で殺されそうになったのです。」と、手で首を絞めるジェスチャを交えて、マダムに説明した。
「早く警察を呼んで下さい。」と私はマダムに訴えた。
「貴方は無事だったし、真夜中だし、警察沙汰にしなくても良いのでは。」とマダムは如何なる理由か知らないが、どうも警察を呼ぶ事に乗り気でなかった。
「私は危なく首を絞められそうになったのですよ。それに怖くて彼ともう一緒に寝ていられないよ。」と私。
「分りました。それでは他の建物の2階の部屋にベッドが1つ空いていますから、今から移って下さい。」とマダムは言った。
勿怪の幸いと、早々リュック等を担いでその2階へ引っ越した。2階のベッドへ潜り込んでからも、興奮して暫らく寝付けなかった。
それにしてもおかしな点が幾つかあった。原住民のアボリジニが部屋壁をぶち壊したにも関わらず、弁償したふしがないし、マダムはそう言う凶暴者を部屋から追い出そうともしなかった。それにマダムは〝殺人未遂〟(この様な状況を本当に「殺人未遂」と言うのであろうか・・・)を起こしても警察沙汰にしたくない、寧ろアボリジニを庇っている、擁護している、そんな気がした。マダムは政府、或いは役所関係からアボリジニを保護・監督する様に頼まれているのか、その可能性が大いにあるかも知れない、と思った。
それに私にしたって警察沙汰にして、彼が殺人未遂で逮捕されても1銭も得にならない。それに慰謝料を取る為の手続きなんて面倒だし、例え手続きを取っても、払ってくれる、そんな彼でもないし、その補償も無かった。アボリジニとは、『触る神に祟りなし』と言う事なのであろうか。まあ、この事件のお陰で2階の西洋人が居る部屋に移る事が出来て良かった。
後で分ったのですが、アボリジニは性質上アルコールに弱い体質を持っているらしい。そしてアルコール中毒、依存症で悩んでいるアボリジニが多いと聞いた。