YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ダーウィンの話と対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

2022-03-10 13:37:36 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
*ダーウィンの話
 Darwin(ダーウィン)の人口は8,000人弱だが、2千~3千人位しか住んでいない感じがした。それでもダーウィンはNorthern Territory(『ノーザン・テリトリー』と言って、連邦政府の直轄地で特別区)の中で一番大きい町、しかも州都の機能も兼ねていた。それにも関らず、ダーウィンに各国大使館や領事館は無かった。ダーウィンは小さい町なので、何処へでも歩いて用が足せた。市内バスなんて走っていないし、タクシーも見掛けなかった。鉄道も貨物専用で、キャサリンまでしか敷設されてなかった。ホテルなんて洒落た宿泊施設は無いし、観光する所も無いので当然、観光客が来る所ではなかった。何しろ不便な所で、見るべき物は原住民(アボリジニ)と大自然だけであった。この様な所だと知らず、オーストラリアへ安く行けると思って、私はカルカッタから来てしまった。
私にとって全く関係ないが、強いて言えばダーウィンは真珠が取れ、良好な港がある事だけであった。将来的に考えれば、発展の可能性は大いに感じた。
 所で、この町の名の由来は進化論で有名な生物学者・チャールズ・ダーウィンの名を取って付けられたと言う。彼がこの土地を発見したとの事らしい。

*対日感情嫌悪の理由の話
 太平洋戦争初期の1942年(S17年)2月、ダーウィンの町は真珠湾攻撃に匹敵する規模の日本軍の空爆を受けた。そしてこの空爆は、翌年の11月まで計64回も繰り返えされた。その結果、多数の死傷者を出すと共に、ダーウィンは壊滅状態になった。そんな訳でこの町に古い建物は、一軒一棟も無かった。民家を含め全ての建物は、ここ十数年以内に建ったものばかりであった。   
又、西オーストラリア州のBroome(ブルーム)もかなり空爆を受け、やはり壊滅的な打撃を受けていた。シドニーの大都市はポート・ジャクソン湾を遡った2隻の日本軍特殊潜航艇の砲撃にさらされ、街が大火災になった。更にニューキャッスル(シドニーの北側の都市)でも、外洋から日本海軍艦船の砲撃にさらされた事もあった。
 日本では、旧日本軍のオーストラリア侵攻、ダーウィン、ブルームの空爆、ニューキャッスルやシドニーを砲撃した事について語る事もなければ、知られてもいなかった。しかし、オーストラリアの歴史に於いて、初めて他国から攻撃されたのである。戦後まだ20年しか経っていない状況でその攻撃は、オーストラリア人にとって忘れ様にも忘れられない出来事でもあり、日本に対し恨みをもって戦った敵国でもあったのでした。