・昭和44年3月31日(月)曇り(砂漠を荷台に揺られて行く)
早朝、私は変な夢を見た。自分で自分の首を絞め、苦しくなって目が覚めた。気が付いたら額から冷汗が流れ落ちていた。それにしても変な夢であった。これもダーウィン滞在中、同部屋のアボリジニに首を絞められそうになった事があったから、と思った。
6時30分に起きて、クロンカリーの町はずれから今日もヒッチを開始した。3時間待っても駄目で、今日も車は全く通らなかった。10時頃、1台目がやっと止まってくれたが、500m先の交差点までであった。それから間もなくして日の丸を振って遣って来たトラックを停めた。10マイル程走った砂漠で降ろされた。トラックは左折し、道無き道をモウモウと砂煙を巻き上げ地平線のかなたへ消えて行った。
降ろされた場所は見渡す限りの砂漠であった。そして私の進む道も舗装されたアスハルト道でなく、砂漠の道であった。ただ轍を頼りに進む、まるでパキスタンのシルク・ロードの砂漠の道と同じであった。オーストラリアの主要道路で、全く人の手が加えられていない未舗装の道があったとは、到底信じられなかった。こんな地域の道路では当然、車が通らないのも頷けた。ここで今日も又、クロンカリーに戻らなければならないかと思うと、泣きたいぐらいであった。
でも、幸運はこんな時にやって来るもの。1台の軽自動車の様な車が向こうから来た。『停まってくれ』と願いを込めて日の丸を振った。願いが届いたのか、その車は停まってくれた。助かった。『地獄に仏』とはこんな時の事なのであろうか、とそんな気持であった。この3台目の車に乗っていた人はダーウィンに住んでいるMr. and Mrs. Skinner(スキナーさんご夫妻)であった。
所で、地図上では砂漠の印が無いのに、クロンカリーからWinton(ウィトン)まで(約350km)砂漠地帯であった。私が乗った車は見渡す限りの砂漠の中を、ただ轍を頼りに砂煙を巻き上げ走行した。私は後ろの荷台(クッションのある座席は、ドライバーの他、1人分しかなかった)に乗っていたので、乗り心地は悪く、おまけに砂漠のガタガタな道なので、尻が痛くてしかたがなかった。
途中、砂漠の中に1軒、パブ、レストランそしてホテルを兼ねた店があり、そこでスキナーさんに昼食を御馳走になった。そして又、ガタゴトと揺られ、車は砂塵を巻き上げ行った。『オーストラリアの主要道路で全く未舗装の区間が、そして轍を頼りに砂塵を巻き上げ行かなければならない道路が在るとは到底信じられない。』と又、思った。
ウィトンにやっと辿り着き、無事に砂漠地帯を突破する事が出来た。一杯やりたい心境であったので、パブでビールをひっかけた。パブのマスターはこんな所で日本人がビールを飲んでいるのが珍しい、と言った様な顔をしていた。
暗くなってから、その辺の空き地に駐車してあったトラックの運転席で眠りに付いた。
今日のヒッチ距離222マイル(355km)で、1,435-222=後1,213マイル(1,940km)、達成率52%になり、やっと全行程の半分になった。