・昭和44年(1969年)3月6日(木)晴れ(偉い所へ来てしまったぞ・・・)
*参考=オーストラリアの1ドルは、403円(1セントは、約4円)。
『寝坊してはいけない』と思い昨夜、YMCAの下働きの少女に言葉が通じないが、時計の針を指差しジェスチャで「明日の朝7時に起こしてくれ。」と頼んだ。しかし彼女は6時に来て、1時間も早く起こされてしまった。彼女は最下層の部類に入るのか、いつも入口付近で下働きをしていた。その彼女は私が滞在中、決して2階へ上がって来なかったし勿論、部屋へも入れなかったのだ。きつく言われているのであろうその彼女が、〝掟を破る行為〟(インドでは決められた仕事以外、出来ない)で、起こしに来てくれた。怒る気はなく、彼女にとっては高額過ぎるのであるが、感謝の気持で1ルピー上げた。彼女はニコニコして部屋から出て行った。お陰で時間が余り過ぎる程、出立準備が出来た。
8時30分、YMCAを出た。すると建物前でそれらしき旅人2人がリュックを担いでやって来た。「グッド・モーニング。」と私は声を掛けた。向こうからも挨拶が返ってきた。立ち止まり、「6日間も宿泊したが、旅人と会ったのは今日が始めてです。」と私。
「そうですか。これから何処へ。」
「飛行機でオーストラリアへ。」
「グッドラック。」
「グッドラック。」と私も言って別れた。
ただそれだけであったが、カルカッタで初めて会った旅人で、何だか和んだ。確かにカルカッタに6日間滞在し、街に出掛けてもそれらしき旅人の姿を1度も見なかった。デリーやボンベイでは、日本人や他の国の旅人に、大勢出逢えて来たのにどうしてであろうか、カルカッタは本当に旅人、旅行者に嫌われてしまったのか。いずれにしても私は名残惜しむ様に、最後のカルカッタの街並みを楽しみながら、歩いてBOACの営業所へ行った。街は既に眠りから覚め、いつもと変わらぬ活動をしていた。9時に到着し、9時35分の送迎用バスでカルカッタ・ダムダム・エアーターミナルへ行った。
ターミナルの税関で、『インド入国時の外貨所有額に関する申告書』や『両替証明書』の検査を恐れていたが、そう言った検査は無かったのでホットした(闇両替していたから)。税関の人に、「ルピーはいくら持っているか。」と聞かれた。私は正直に、「11ルピーです。」と答えた。彼は、「全部、使い切りなさい。そうしたらOKだ。」と言った。本、タバコ、チョコレート等を買って、税関を無事に通過した。
シドニー行きBOACフライトナンバー716便の飛行機は、30分遅れの12時05分に離陸した。飛行機を乗るのは、やはり昼間の方が良かった。眼下の景色も見られるし、何かあれば直ぐに分るし、搭乗していて安心感があった。
今日は良く晴れていて、眼下のMouths of the Ganges(ガンジス川の大河口地帯)の景色が素晴らしく、良く見えた。川筋が幾重にも幾重にも果てることなく続いた。何百キロ(400~500キロ)にも渡る大河口、ベンガル地方はまさに水の上に浮かぶ群島であった。窓際の私はこの景色を2度と忘れまいと、食い入る様に眺めていた。
12時05分にカルカッタを離陸して、シンガポールに到着したのは18時であった。我々の機は太陽を背にして飛んでいるので、時間が経つのが早く感じられた。乗客の乗降、そして給油後、再び離陸した。機上から見た太陽が海に沈む黄金の夕日の景色は素晴らしかった。
シンガポールからスチュワーデスは、インド人から綺麗な中国人に代わった。間もなくして、機内夕食が出されたが、旨くなかった。
機は3月7日午前0時30分、ダーウィン空港に到着した。降りた乗客は私を入れて3~4名であった。入国手続き等が終ったら、他の乗客の姿は見当たらず、ロビーには私以外に人っ子1人、居なくなってしまった。ガランとした空港のロビーは、淋しいかぎりであった。そしてロビーの明かりは消されつつあった。仕方なく私はロビーから外に出て見た。街まで行くバスはもちろん、タクシー1台も無かった。これでも国際線の飛行機が発着する空港なのか、信じられない光景であった。『偉い所へ来てしまったぞ』、これが私のオーストラリア最初の印象であった。仕方なく、空港建物前の芝生の上で一夜を過した。蚊の来襲が激しく、寝られなかった。冴えないオーストラリアの最初の夜を過ごした。