YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

先へ進めない厳しいヒッチの旅、そして死のオーストラリア横断の話~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-23 08:37:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
          △オーストラリアの砂漠ーCFN

・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)
 6時半に起き、マウント・アイザ郊外からヒッチを始めた。1台目の車は20マイルばかり走ったら、「車の調子がおかしい」と言って停まってしまった。オーストラリア横断ヒッチ中、これで2回目であった。車検や整備体制が確立してないのか、オーストラリアの車はよく故障する様であった。そしてそのドライバーは、「修理の為、引き返す。」と言って私を荒野に置き去りにして、来た道を引き返しマウント・アイザへ行ってしまった。
 昨日もそうであったが、今日も歩いていたり、道路端で立っていたりすると、私の回りに蝿が集まって来て鬱陶(うっとう)しかった。それ程に私の身体は異臭を発散し、不潔になってしまったのか。3日間、野宿しながらの旅で、確かに清潔な体ではなかった。それでもこの絶え間なくまとい付いてくる『うるさい蝿』は、異状であった。手で追い払っても、追い払ってもまとい付く無数の蝿に、閉口した。
 マウント・アイザ方面から車がやって来た。必死で国旗を振って、止まってくれることを願い合図した。この2台目の車で9時頃、Cloncurry(クロンカリー)に着いた。そして再び、何処からともなく集まった纏(まと)わり付く蝿をお供にして郊外へ出た。
 しかし、ヒッチはここから全く駄目であった。日曜日だか何だか分らないが、2時間以上待つが、車は一台も来なかった。蝿の攻撃に遭うし、暑いし、そして喉の渇きと空腹でギブアップ状態であった。何か食べ物を求め、蝿をお供にクロンカリーの町まで戻った。ストアでパンでも買おうと思ったが、日曜日で閉まっていた。クロンカリーの町に人っ子1人見当たらなかった。ゴースト・タウンの様に静まりかえった、本当に小さな町であった。
 仕方がないので表通りから少し奥まった、ある民家へ水を貰いに行った。
「すいません、誰か居りますか。」と2度ばかり大声で声を掛けた。すると親切そうな奥さんが出て来た。
「すいませんが、水を分けていただけますか。」とお願いした。
「いいですよ。」と快く奥さんは言ってくれた。ペットボトルを渡しついでに、「実は、奥さん。今日、私は何にも食べていないので、お腹がペコペコなのです。何か買いたくてもストアは閉まっているし・・。お金はあります。パンを売って下さい。」と奥さんの人の良さを感じて、パンもお願いした。
「そうですか。それはかわいそうに。少し待って下さいね。」と奥さんは言って家の奥に引き返して行った。暫らくして奥さんが戻り、お水は勿論、サンドイッチを作ってくれて、林檎1個も付けてくれた。
「奥さん、わざわざサンドイッチを作ってくれて有り難うございます。私はお金を持っています。幾らだか言って下さい。」と私。
「いいのよ、気を使わなくても。」と奥さん。私はお礼にインドのタジ・マハールの絵葉書(日本の絵葉書ではないので残念)を奥さんに渡した。
「御親切、本当に有り難うございます。」お礼を述べて、その家を後にした。
奥さんの心温まるサンドイッチ(野菜とツナ・サンド)は美味しかった。
 食事後、又ヒッチを始めた。2時間に1台通るか如何かと言う状態で、やっと来ても素通りし、厳しいヒッチであった。ここは本当に車が走ってなかった。そして蝿を幾ら追い払っても、私の顔・頭の周りに絶えず纏い付く無数の蝿(ハエ)で、これにも参るのでした。
 今日遅くになって3台目がやっと止まってくれたが、何て事はなかった。これは方向が違うので、200~300m直ぐ先の交差点までであった。その車は左折して行ってしまった。私は右の道、ウィトン、シドニー方面なのだ。
 時間は既に午後の3時半を過ぎていた。淋しくなって来た。この町に午前9時頃着いて、6時間以上経っても一向に進む事が出来なかった。この間、車が3~4台、通っただけであった。私が今までヒッチをして、これほど車が走っていないのは、過って無かった事であった。次の町まで320マイル(500キロ以上)であろうか。余り無理する事が出来ない長い距離であった。
 車次第で、「先へ行くか、町へ戻るか」決める事にした。結局、町への方向の車が来たので、郊外からクロンカリーの町へ戻って来た。日曜日で人影もない、その静まり返ったゴースト・タウンで今夜もその辺に放置してある自動車の中で夜を明かした。
 今日のヒッチ距離は80マイル(128km)。1,515-80=後1,435マイル(2,583km)。ダーウィン~シドニー間は2,554マイル(4,086km)なので今日まで大陸横断達成率は44%。1日たった80マイルだけでは、この先が心配だ。

・死のオーストラリア横断の話
 1868年8月、メルボルンから北へ人跡未踏の大陸横断に出発した、州政府支援の探検隊14名の内、バーク先遣隊4人もクロンカリー付近一帯の砂漠で、この五月蝿い蝿(うるさいハエ)の来襲に毎日、閉口していた。彼等先遣隊は、クロンカリーを経て北端のカーペンタリア湾に到達した。帰路、自分達の荷物等を運ぶ馬やラクダを殺し、食料にまでしてやっと辿り着いた“クーパーズ・クリークの中継基地”(クィーンズランド、ニュー・サウス・ウェールズと南オーストラリアの各州の中間地点付近)の隊員達は、先遣隊の4人を待たずして既に撤収した後で、基地は間抜けのからであった。先遣隊4人は疲労困憊、飢え、病気等で4人の内3人がその後、間もなく砂漠の中に消えて行った。最後の1人は、奇跡的に通りかかったアボリジニ(原住民)に助けられ、その後、何箇月か後に州政府救援隊に救助されたのであった。
 “恐るべき空白”(死のオーストラリア縦断)の書の中の一説から~『だがそれはいぜん砂漠、少なくとも半砂漠なのであり、これがオーストラリア大陸中央部の本当の状態である。そこには風に吹かれる砂丘が長々と伸び、漠々たる砂原が何処までも続く。頭上には、果てしない大空が広がっていて、とても海に似ている。そこには海の平和と、海の無情とが並存する』とオーストラリアの中央部の状態を書き表していた。
 20世紀の初めに地質学者のJ・W・グレゴリーはクーパーズ・クリークまで行き、その著『オーストラリアの真っただ中』で、次の恐ろしい文章を書いた。「ときとして隊商が砂丘の彼方に隠れてしまう時、砂漠のまっただ中に水も無く、食料も無く、そして救援の手の差し伸べられる当ても無く取り残されてしまったという恐怖が、人の心を襲わずにはいられない。こうして倒れた不幸な旅人の、ディンゴ(野生化した犬)に食い荒らされたあげく、砂に磨かれた骸骨が、中部オーストラリアの荒野に散らばっているのを、人は思い出すのである。迷子になった探検家の死に物狂いの闘い、精も根も尽き果てた彼の最後の一マイルの行進の模様が、目の前に浮かんでくる」と。
 これが多分、バーク隊4人の悲劇の真髄なのだろう。それがオーストラリアの強烈な一種の伝説として、いつまでも語り継がれる理由も又ここにある。この物語は初期に入植者達が心の奥深くで感じていた直感、つまり生きてゆく事は人間対人間の闘争であるよりも、その前では全ての人間が平等である自然と人間の間の闘争であるという直感を遺憾なく表現したものである。そしてこの自然との闘いで、人間が情け容赦もない無慈悲な奥地に迷い込み、我が身をすっかり敵の大自然に曝け出しているときに、仲間の人間から『見捨てられる』というのは、まさに最も卑劣な裏切り行為であった・・・と。これはオーストラリア中部から北部を舞台に、世界で最も過酷な土地に挑み、砂漠の果てに消えた男たちの悲劇の『ノンフィクション』である。
 1788年以来からオーストラリアの開拓が進められてきたが、80年経っても大分水嶺山脈の東側のブリスベン、シドニー、メルボルン、そしてアデレードを結ぶ太平洋とインド洋の海岸沿いだけであったのだ。その山脈の北西側の大部分は、人跡未踏の未開地であったのだ。
そしてそれから更に100年経った今日(1969年)でも、国土の大部分は砂漠・土漠、ただ単に町は点と点を結ぶ道路だけが繋がり、その間はぱっくりと広大な砂漠、土漠の原野が広がっていた。