ななごの部屋(リウマチとともに)それから

リウマチとともに歩みアクテムラのおかげで安定してきた私。もっと溢れるように生きたい☆2013/1/1開店☆

宮沢賢治の歌碑めぐり

2017年05月31日 | 文芸
晴れ。夕方には天気が崩れるという。
午前8時30分に集合してバスで宮沢賢治の歌碑めぐりの旅(日帰り)に参加。

駅前のビワの木。

最初に上長瀞の自然博物館前の歌碑。

「つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ 宮沢賢治」
俳句でいつも近くを利用しているので、慣れ親しんだ歌碑だ。

歌碑はこの宮澤賢治の手紙をもとに建てられた。




荒川の近くまで下りていく。足元が悪く…友達のお世話になった。
片岩の近くは、川の音と地形の美しさで下りてきて良かったと思う。

宮澤賢治が愛した「ドロノキ」葉の裏が白く文字が書ける。

この辺一帯は、地球の窓と呼ばれて、太古の古い地層が顔を見せている。
前回、車の窓から見ただけだった「ようばけ」。「ばけ」とは「がけ」のことだそうだ。
ここにまた、来れたことが嬉しい。



おがの化石館敷地内の歌碑。宮澤賢治、保阪嘉内友情の歌碑。


「さはやかに半月かかる薄明の秩父の峡のかへり道かな 宮沢賢治」

「この山は小鹿野の町も見へずして太古の層に白百合の咲く 保阪嘉内」

歌碑が少し向き合って、友情を感じさせる


それから化石館へ




化石館の2階からの「ようばけ」

※「ようばけ(国指定天然記念物)」とは
下小鹿野奈倉地内を流れる右岸に白い岩肌を見せている大きな崖があり、この崖を「ようばけ」と呼んでいる。
この「はけ」とは崖のことで、陽の当たる様子から名付けられたと伝えられている。
高さ約100m、幅約400mにわたる地層の大路頭で、周囲の自然と調和し、見事な景観を作っている。
この崖は、当地の基盤である第三紀層が赤平川によって浸食されたもので、秩父町層群奈倉層と呼ばれる地層からなる。
その地層の年代は、今から約1500万年前の新生代第三紀中新世である。
当時の日本列島の大部分は海となり、奥秩父の山裾まで海が広がり、泥岩、砂岩、レキ岩、凝灰岩からなる第三紀層がが形成された。
…(パンフレットより抜粋)

↓小鹿野町庁舎前の歌碑

「山峡の町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれらもだせり」

松の木を選定していた。「まつけむし」と聞いた。「まつけむし」の棘は毒をもっていて刺されると痛痒くなり当分の間腫れるそうです。

小鹿野町観光交流館にて昼食



桑の葉の天ぷら、コシアブラの葉の天ぷら等


小鹿野町観光交流館敷地内の詩碑。「雨ニモマケズ」

↓宮沢賢治が宿泊した部屋。窓からの景色も。



小鹿野町三山古鷹神社

小鹿野町三山古鷹神社境内の歌碑

「霧晴れぬ分かれて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち 宮沢賢治」





大きな看板のわりには川があるだけで、下に降りていくと地質的には素晴らしい場所のよう。



秩父鉄道 野上駅前の歌碑

「盆地にも今日は別れの本野上駅にひかれるたうきびの穂よ 宮沢賢治」


道の駅。帰り際に寄る。



素晴らしい一日バス旅行だった。
参加して本当に良かった。
行きにバスの中で観た賢治のビデオから、配られたサイダー(賢治が好きだったということで)
帰りのバスの中で流されたDVD、前回の短歌会の旅行を当日の画像と参加者の短歌で美しく仕上がっていた。
そしてDVDを配っているのを見て、何枚もコピーしたのだと思う。

また、小鹿野に魅せられて都内より移り住んだYさんの説明はかなり詳しく聞き逃すまいと思った。
賢治が小鹿野に泊まったという事実を証明する手帳も彼が発見した。
かなり、マニアックな賢治愛好家に囲まれていることに気がついた。
細かに行き届いたバス旅行だった。

俳句 ななご作

ようばけをガタ馬車はいく笑い声…(下小鹿野奈倉地内を流れる右岸に白い岩肌の大きな崖)

「もだせり」と賢治の歌碑やケムシ這う…(「山峡の町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれらもだせり 宮沢賢治」)

むかい合う歌碑の友情緑なり…(おがの化石館敷地内の歌碑)に

バスの揺れ賢治のサイダー泡増える (バスの中で配られた、賢治の好きだったサイダー)

燕くる賢治の宿や今昔…(小鹿野町観光交流館、旧本陣寿旅館)


コメント (2)
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