コールセンターで入ったはずが、最近は事務もやるし窓口での対面業務にも携わらさせてもらっていて、仕事が多岐にわたっているので日々勉強です。久しぶりの対面業務に最初こそ緊張してましたが、だいぶ慣れてきて楽しくやらせてもらってます。
昨日、窓口業務の終わりに同僚から『齋藤さんはこの仕事天職だよね』と言われ、うれしいような…寂しいような、複雑な気持ちになって今もそのセリフが頭の中をぐるぐるしています。
もちろんその同僚は、褒め言葉で言ってくれたんだと思います。
この仕事を始めてから約8ヶ月。最初の頃は、音楽の仕事が1番だから、目立たず迷惑かけない程度でやっていければいいや〜。なんて思っていたんですが、"何事にも一生懸命!中途半端が大嫌い!働くの大好き❤️"な性格が顔を出し…💦日々変わる仕事内容なので、お休みすると分からなくなっちゃうからと、午前中のみのシフトからフルタイムシフトに変え、週3〜4から週5に変え、猪突猛進でがんばってきました。
だから、成果が認められる事はすごく嬉しいんですが、『天職』の単語がやけにひっかかる…
というのは、20年以上務めてきたゴスペルクワイアのディレクター、また歌い手、曲作り、ボイトレ講師としての働きが、自分には『天職』だと心から信じていたからです。
でも、今日半年以上ぶりのクワイアリハーサルを終えて、この仕事もわたしにとってはやっぱり『天職』だったんだなんだとしみじみ感じる事ができました。
どの仕事であっても、その仕事に導かれている事自体が、神様からの指令でたどり着いた場所であり、天から与えられた職。どこにいても何をしても、置かれた場所で輝きを放つ事、花を咲かせる事が大事なんだと気がつきました。
渡辺和子さん著書『置かれた場所で咲きなさい』の中では更に、''雨の日、風の日、どうしても咲けないときは根を下へ下へと伸ばしましょう。次に咲く花がより大きく、美しいものとなるように。"
とあります。花を咲かす為にはそれなりの努力や準備、配慮や謙遜、試練やがまんが必要だけど、そこに導かれた大きな存在である神様を疑う事なく信じて積み重ねて行くのなら、神様はそれを憐れみ、報いてくださる事を知りました。
聖書の中でイエス様が語られた有名な言葉があります。山上の垂訓の『地の塩、世の光』といえばクリスチャンで知らない人はいないでしょう。
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
マタイによる福音書 5:13-16
この2年間、大好きな人たちが次々亡くなり、コロナで天職だと思い込んでいた歌の仕事が無くなり、コロナに感染し、後遺症で歌えなくなり…
信仰が未だかつてないほどに低迷しました。
でも、最近少しずつ上向き傾向にあるかも。
どこに行こうとも、なんの仕事をしようとも、誰といようとも、やっぱりわたしはイエス キリストを信じて、神と共に歩む人生がいい。
暗闇の先に必ず光がある!悲しみは喜びに変わる!そんな希望を持てるのは、やっぱり信仰だと確信している昨今です。
『使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(ルカ17:5〜6)』
先週、今週は別途販売のお仕事もあり、色んな方とお仕事し、『お客様』への対応をしてきました。
新卒で入社した会社を20年まえに退職してからは、子育てとゴスペル関連のお仕事だけをしてきたのですが、ゴスペルシンガーとして歌いに行けば、至れり尽くせりしていただき、申し訳ないほどに気を遣っていただきます。
また、ゴスペルやボイトレの指導者としていけば、"先生"と言われたり、そのような扱いを受けます。(基本"先生"と呼ばれたくないのでそう呼ぶ方はごくごくわずかですが…)
今、振り返ってみると、何年か前は天狗になってたなーと、思うほどです😅
コールセンターでは、まださほど電話を取ってないのですが(笑)、それでも1度説教型の方に捕まって長々と自慢話と説教をされました。他の同僚が取った電話では、散々文句を言ったあげく『死ね!』と暴言を吐いて切った不届き者も。
そういう人は名前を聞いても決して名乗りません。電話で文句を言ったところで変わらない事もわかってるんでしょう。
顔が見えないコールセンターではよくある事なんだそうです。
先日は接客で、"ゆっくり見れないから着いて来ないで!" と言われ落ちました⤵️
幸運な事に学生時代からたくさん接客業のバイトをしてきましたが、そんな事を言われた事が無かったのです。しかもその日は他店のスタッフが年配の男性からクレームを受けていることろに遭遇。それこそ人格否定するような言葉まで添えて。
なんで赤の他人で、人となりを知らない人に対して、偉そうな態度を取ったり偉そうな言葉を発したり、怒鳴ったり、怒ったりと感情を露にできるんだろう?恥ずかしくないのかなぁ?
客観的に見て、みっともないと思ってしまいます。要は自分の感情をコントロールできないわけじゃないですか。
言葉って使い方によって、人を生かす事も殺す事もできます。
聖書にも舌を制御する事は難しいと書いてあります。まぁ、わたしも言わなくてもいい事を言って後悔する事も多々ありますが😅
幸い、一緒に働いている人たちはみんないい人ばかり。上司も同僚も。販売のお仕事でも驚くほど皆いい人ぞろいで、楽しく仕事しています✨
悪い模範を見る事が増えた事で、余計に誰に対しても謙虚である事、年下であろうとサービスを受ける側であろうと、関わる相手をリスペクトして関係性を良好にし、お互い人間力を高めて行けたらと思わされています。
とはいえ、残念ながら良い関係性が気づけない人っているんですよねー。わたしもごくたまにいます💦
その時は無理してがんばらず、その人から身を避けるようにしています。若い頃は"誰とでも!誰に対しても!"努力さえすれば大丈夫なんだと思ってましたが、ある時無理だと気がつきました😅
そんな気づきが与えられたことも、たくさんの出会いや経験によるものなので感謝です。
詩篇 19:14
「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、 どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが あなたの前に喜ばれますように。」
ヤコブ3:2〜
3:2 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
3:3 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
3:4 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
3:5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
3:6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
3:7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
3:11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
3:12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。
11/13から日本でも上映がスタートする"I can only imagine 明日へつなぐ歌"の
リモート試写会に参加させてもらいました。
あまりに今の自分とリンクしすぎて泣いて泣いて嗚咽しながら観ました😓
親子関係、夫婦関係、兄弟関係、友人関係…近ければ近いほど、その存在が当たり前になり、素直になれない。本当は誰よりも愛しているはずなのに、その気持ちを伝えることが最も難しい相手。
きっとお互い傷つけあっているのに、自分だけが傷つけられていると正当化するのが人の弱さ。この映画はその弱さと葛藤し、もがき苦しみ、自分の力ではなく、神さまの後ろ盾と、恵みと憐れみにより"許し"のプロセスを経て、名曲が生まれたというストーリーです。
多くの人に見て欲しいです。
割引チケット持ってます。ご一報ください✨