昨日、Nさんという方の個展に行きました。
すぐ身近かにある草花を、とても素直に絵に描いている方です。
以前から、もっとゆっくりと話をしたいね、と言っていましたが、ようやく実現しました。あっという間に2時間半が経ちました。2時間半は、ゆっくりではない、と思いつつお開きにしました。
絵画にしても語りにしても、悩むところは、あまり変わらないのかなあ。何を表現しようとしても、同じところで悩むのかもしれないなあ。
お金にならないようなこと、共感者が少なかろうこと、そんなことに魅せられてしまった人が、持つ悩み、というのかなあ。
妻や子を食べさせなくてはならない。そのためには、不本意なこともしなければならない、という話。不本意だけれども、ゆるすことのできる、ぎりぎりのところで折り合いをつける、のだそうです。「ゆるす」は「許す」ではない、「恕す」という字を書くのだ、ということでした。そこから、悲しみの話になって行きました。
「まだ、言葉のなかったころ、一人の女がいて、乳飲み子に乳を含ませようとした。しかし、子が、動かない。息をしない。喪失の悲しみ。こんなところが、悲しみの始まり」という話をきいていて、、、
愛するものを失った悲しみと同時に、乳飲み子が口に含むべき乳が張って、さぞかし、痛くて、苦しかっただろうと、想像しました。こればかりは、経験したものでなければわからない苦しみで、あの、のたうちまわるほどの痛み、乳を吸ってくれさえすれば、軽くなるはずの、幸福と正反対の苦しみです。
女に生まれて、妊娠出産を経験したことで知った、誕生・出会いの喜びと、痛みをともなう喪失と悲しみ。
ひとつひとつの経験を、語りの中で、どのように生かすことができるのだろうか。言葉の裏側を表現できるような、ひとこと言葉を発しただけで、その背後にある膨大な物語を感じさせるような語り手になりたいと願うのは、無理な話だろうか。
そんなことを考えるのは、傲慢なのだろうか。100年早い、のだろうか。