中国貴州省とそこで暮らしている苗族トン族等の少数民族を紹介しています。

日本人には余り馴染みのない中国貴州省と、今私が一時滞在中の雲南省や大理白族自治州大理古城について

拱辰楼の火災で責任者が逮捕

2015年02月14日 | 雲南省

2月4日付の春城晩報(電子版)に拠ると、今年1月3日に大理州巍山彜族回族自治県で起きた明朝時代に建築された「拱辰楼」が火災により焼失した事件で、巍山彜族回族自治県の公安当局は、「段」と云う人間を失火の容疑等で逮捕したとの事です。今回逮捕された段氏は、南詔古楽団団長の職にあり、2010年から、「拱辰楼」で団員と共に南詔国(巍山地区を中心に8世紀初期に打ち立てられた彜族の王国)に伝わる民族音楽(洞経音楽と云うとの事)を演奏、披露していたそうです。また、拱辰楼内部で、「茶室」を経営していたとの事です。今回の火災は「拱辰楼」の内部から失火したとみられる事から、「茶室」部分からの漏電や火の不始末等が原因で、火災が起きたと考えられるとの事で、「拱辰楼」を管理、運営していた責任者の段団長が逮捕された様です。また、日常的な管理運営や、火災等に対する責任も団長初め団員が負う事になっていたそうです。

2014年には、雲南省香格里拉古城、雲南省麗江古城、貴州省鎮遠鎮報京村等の歴史ある鎮や村で、相次いで大火災が起きた事もあり、改めて歴史ある建造物の保護、保存が注目を浴びていたその矢先に、またもや雲南省で約600年前の明朝時代に建築された建物が焼失したので、中国では、TV初め、新聞等メディアでは大きなニュースとして取り上げ報じていました。この火災が起きた後に、一部のメディアは「拱辰楼」の管理体制や防火に対する備えが、一体どうなっていたのかを問題視する声が起きていました。また、「拱辰楼」内部で「茶室」が営業されていた事や舞台で民族音楽が演奏されていた事もあり、建物の内部は電線やコンセント等が無秩序に張り巡らされており、地元の人からも、これらの点を問題にする声が上がっていたとの事です。また、宣伝の為の提灯等も建物のあちらこちらに無造作に取り付けられており、一部の人の間では疑問視されていた様です。

 私も何度か巍山県を訪れた事があります。その度に、この「拱辰楼」に足を運び、演奏を聴いたり、「茶室」でお茶を飲んだりしましたが、この写真は2013年に2月に、巍山県を訪れた時の写真です。「拱辰楼」の中には普通の本屋では到底手に入らない様な彜族に関係する本も置いてあり、その様な類の本に目を通すのも楽しみの一つでした。巍山古鎮には大理古城の様に、喫茶店も無いので、巍山に行く度に、この拱辰楼の「茶室」には必ず立ち寄っていましたが、残念な事に、この歴史ある建物も焼失してしまいました。尚、国家文物局の統計に拠れば、2000年から2013年の間に、重要文化財の火災は52件起きているとの事。

 

「拱辰楼」の内部の様子。この様に舞台がありました。 この舞台で民族音楽の演奏が行われていた。内部は大きな講堂の様な感じで、建物内部には区切りも無かったので、火の廻が速かったとの指摘もある様です。舞台正面が二階になっていて二階にも茶室の席がありました。内部全体が二階建てと云う訳ではありませんでした。

 

内部は一部二階建で、二階にも茶室の席がありました。舞台の正面に二階部分がありました。これ以外の部分には、二階の部分はありませんでした。

 

内部は舞台での演奏を楽しみながら、お茶等が飲めるようになっていました。歴史ある建造物の内部で「茶室」等の商業活動がされていた事が、一部では問題とされている様です。

 

カウンター  建物の内部には、ご覧の様にコンセントや電線の配線が見えますが、火災の原因は未だ特定されていませんが漏電の疑いもあるとの事。カウンターは舞台の正面にありました。

 

 中国でも、地元の雲南省ではない中央のある新聞(電子版)に、ある記者がこの拱辰楼の茶室を訪れた事も記事にしていました。その記事に拠れば、お茶以外には瓜子(ひまわりやカボチャの種)もあり、あまつさえ焼羊肉(羊の焼肉、羊の肉の焼き鳥の様な物、シシカバブー)を老板から勧められたと云う様な内容の事が書いてありましたが、私は、これについてはやや疑問があります。私がここを訪れたのは、二年前なので変わったのかもしれませんが、そもそも焼羊肉はメニューにあったか疑わしいような気がします。その記事には、無論内部の茶室の写真は載ってませんで、歴史ある建物内部で商業的な営業をしていた事を咎める内容の記事でしたが、それなら何故写真を載せなかったのかと私は思いますが、、、、。

 

階段、入り口へと通じる廊下。残念ながら、その写真はないのですが、この建物に上がる階段とは反対側に、平屋の小さな建物がありました。新聞等に拠ると、ここに管理人のような人が住んでいたとの話もあります。拱辰楼の脇に小さな平屋の建物があったのです。ここで煮炊きをしている様でしたし、人が住んでいる気配がありました。

 

 

明朝時代(1390年)に建設されたと云う「拱辰楼」。最初は三階建てだったそうですが、1648年に修理、再建され現在の様に二階建てになったの事。楼の内側から眺めた「拱辰楼」。この写真では見えませんが、向かって左側に実は平屋の小さな建物があったのです。外部から見ると二階建てに見えますが、内部は、向かって右側の部分に二階がありましたが、建物内部全体が二階建てと云う訳ではありませんでした。南側の扁額には、「魁雄六诏」と書かれていたそうです。

 

 通りから眺めた「拱辰楼」。大変残念ながら、今回の火災で全焼してしまいました。こちらが南側になる。


大理古城等と違い、殆んど観光客も居ません。

 

拱辰楼から眺めた楼の北側の通りの様子。巍山古鎮には、ご覧の様に古い町並みが残っています。

 

拱辰楼から眺めた、楼の南側の通りの様子。

 

歴史的な建造物が消失した事で、中国のメディアでは、改めて管理体制や防火体制がどうなっていたかを問う声があがっていました。ある新聞は、今回の火災が起きる前、この新聞社の記者が拱辰楼の茶室を訪れた際の事を記事にして、老板からシシカバブーを勧められた事を問題視して記事に書いていますが、それなら何故火災が起きる前に指摘しなかったのかと思います。また、写真等で、記者はその危険性を指摘すべきだったとも思いますが、その様な写真もありません。いずれ再建されるとは思いますが、残念ながら消失してしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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