●不思議なおばちゃん達と僕(その16) ※「連載初回」はこちら
~母緊急入院で有事を思い知る~
"喉元過ぎれば熱さ忘れる"ってなもんで、僕が生まれ育ち母やおばちゃん達が暮らすふるさとを直撃した中越沖地震の騒ぎが一段落すると、少なくとも日常的には、何事も無かったかのような生活に戻っていった。母が地震でも被害を受けなかった軽自動車の三菱ミニカを運転して買い物など代行したりして、おばちゃん達の生活を支えつつ見守る日々が続いた。ちょうどその頃、僕は異動で20年以上赤字続きで深刻化する県立病院の経営に関わる部署に配属され、黒字化のための経営計画の取りまとめに残業を重ね、その推進のために県内15カ所(当時)に散在する県立病院を駆け回ったりと忙しかったので、母やおばちゃん達が無事平穏に暮らしてくれていて有難かった。
そんな忙しい職場を4年間勤め上げ、全く別分野の部署へ異動した新年度の矢先も矢先、平成24年4月3日の火曜日の夕方であった。僕が着任したばかりの新入りとして、課長らと仕事の進め方などについて話しながら、明日からの業務本格化を身構えていた時に、ケータイに妻からの連絡が。僕の母が緊急入院したと実家のご近所さんから我が家の固定電話に連絡が入ったというのだ。"緊急入院"の"人づての連絡"…。本人が電話してこれないような状況に青ざめる。直ぐに母の入院先へ向かうと告げてケータイを切ると終業のベルがなり、事情を一言告げて駆け足で職場を後にした。
この日は午後から日本海側の沿岸地方にありがちな"春の暴風"が吹き荒れ始めていて、警報も出た頃合いではあったが、自宅で簡単な泊まり支度を積み込んで車に乗ると、迷わず高速道路に入った。帰省の時いつも使う国道に比べて半分の時間で実家の近くの入院先に着ける。母の安否を不安に思いながら気を揉む帰省は、中越沖地震以来5年ぶりだ。僕の心情を映し出すかのように、春先の高速は暗くなるのが早く、ヘッドライトが狭く照らす目の前を警報級の暴風で折れた木の枝やらゴミ袋やらが飛び交い、車に次々と当たってきた。車まで持って行かれそうな強い横風を幾度となく凌ぎつつ、高速のインター出て直ぐの母の入院する病院へ辿り着いた。
果たして病室へ入ると、母はベッドで横たわっていた。声を掛けると目を開けて返事をする。生きていて意識もあることに先ずは一安心する。それどころか、普段と変わらぬ表情で上半身を自分で起こしたので驚いた。緊急入院と聞いたが重篤ではなかったのかと。落ち着いて事の経緯を聞き始めた。
数日前から歩くときにフラフラとして平衡感覚がおかしかったのだという。本日ついに頭痛もしてきて、隣家の知人に話すと、それは脳の重病ではないかということになり、急げとばかり車に乗せられて病院に連れてきてもらったとのこと。医師からCT検査の結果は脳の"硬膜外出血"だと言われ、CT画像を見せてもらったら、血だまりが圧迫して脳が大きく偏った形になっていて自分でも驚いたという。思い当たるのは数週間前に寝るときに寝室の柱に頭をぶつけたことくらいだとのこと。それ以来少しずつ血が漏れ出て次第に身体のバランスに影響してきたらしいのだ。
より深刻な"くも膜下出血"などではないと聞きホッと胸をなで下ろす。明日の午後に手術が予約され、頭蓋に小さな穴を開けてチューブで血液を抜く外科的処置を受けるとのこと。予断は許せないので、当然に明日は一日仕事を休んで待機することとし、看護師や医師から事前の説明を終えて病棟の消灯前に病院を後にして、いまだ吹きすさぶ春の暴風に車を煽られ折れた木の枝などを避けながら、泊まり込むための実家に着いた。
親族の関係といえばしばらくの間、大方のことが平穏に過ぎてきたが、有事というのはいつも突然にやってくるものだなあと就寝のために仰向けになり天井を見ながら思う。それにしても、僕が面倒をみるべき三人の高齢者のうち、まさか最も若い僕の母に最初に危機的局面を迎えるとは。「逝く順番を間違えないようにしないと…」などと母と以前軽口を言っていたことが思い出される。それはともかく、片親で兄弟もなく家系的に寂しい思いをしてきた母には、まだ学生である僕の子供達の行く末をじっくりと見て欲しいとの気持ちもあり、手術の成功と回復を祈るのみだった。
一夜明けると、ふるさとの街なかは一面白い世界に。新潟での春先の低気圧による暴風に続いてありがちなのだか、前線通過後の寒気入りで一気に雪模様となり、下界に白銀を纏わせた。看護師からの指示で手術前後に使う大型のバスタオル数枚や衣類などを抱えて病室に向かうと、母の表情は明るく特に変調もなさそうだ。担当看護師から母と共に改めて術前の説明を聞いて予定どおりの手術時間を迎え、僕は電話で呼び出しがあるまで実家で待機することに。
手術は無事成功。術後の主治医は、こちらの心理的な緊張と緩和の激しさなどつゆ知らぬように、こともなげに淡々と説明する。6日もすれば退院という。頭蓋に穴を開けるとは一大事と考えていたが、外科的にはその程度のものらしい。退院予定日までの間の休日に面会すると僕の母からは術後の痛みとか不調の訴えはなく、隣の機械室がうるさくて眠れずに病室を変えてもらったことを冗談含みで話してくるほどで、安堵感すら出てきた。
順調な回復により予定どおりの退院日に休暇を取って母の送迎を済ませ、病後を勘案して当面は買い物に出掛けずとも良いようにと食料品の買い出し備蓄などをして僕が実家を後にするとき、母は気丈に見送ってくれた。僕の母くらいの年齢ならよくある疾病であり、今時では大変と言うほどでもない手術を経て、想定通りの回復で一段落ということになったわけだが、僕にはこの度の一件が、僕が担うことになっている母やおばちゃん達の面倒見について改めて意識させて覚悟を迫る警鐘のように思うのであった。
そんな忙しい職場を4年間勤め上げ、全く別分野の部署へ異動した新年度の矢先も矢先、平成24年4月3日の火曜日の夕方であった。僕が着任したばかりの新入りとして、課長らと仕事の進め方などについて話しながら、明日からの業務本格化を身構えていた時に、ケータイに妻からの連絡が。僕の母が緊急入院したと実家のご近所さんから我が家の固定電話に連絡が入ったというのだ。"緊急入院"の"人づての連絡"…。本人が電話してこれないような状況に青ざめる。直ぐに母の入院先へ向かうと告げてケータイを切ると終業のベルがなり、事情を一言告げて駆け足で職場を後にした。
この日は午後から日本海側の沿岸地方にありがちな"春の暴風"が吹き荒れ始めていて、警報も出た頃合いではあったが、自宅で簡単な泊まり支度を積み込んで車に乗ると、迷わず高速道路に入った。帰省の時いつも使う国道に比べて半分の時間で実家の近くの入院先に着ける。母の安否を不安に思いながら気を揉む帰省は、中越沖地震以来5年ぶりだ。僕の心情を映し出すかのように、春先の高速は暗くなるのが早く、ヘッドライトが狭く照らす目の前を警報級の暴風で折れた木の枝やらゴミ袋やらが飛び交い、車に次々と当たってきた。車まで持って行かれそうな強い横風を幾度となく凌ぎつつ、高速のインター出て直ぐの母の入院する病院へ辿り着いた。
果たして病室へ入ると、母はベッドで横たわっていた。声を掛けると目を開けて返事をする。生きていて意識もあることに先ずは一安心する。それどころか、普段と変わらぬ表情で上半身を自分で起こしたので驚いた。緊急入院と聞いたが重篤ではなかったのかと。落ち着いて事の経緯を聞き始めた。
数日前から歩くときにフラフラとして平衡感覚がおかしかったのだという。本日ついに頭痛もしてきて、隣家の知人に話すと、それは脳の重病ではないかということになり、急げとばかり車に乗せられて病院に連れてきてもらったとのこと。医師からCT検査の結果は脳の"硬膜外出血"だと言われ、CT画像を見せてもらったら、血だまりが圧迫して脳が大きく偏った形になっていて自分でも驚いたという。思い当たるのは数週間前に寝るときに寝室の柱に頭をぶつけたことくらいだとのこと。それ以来少しずつ血が漏れ出て次第に身体のバランスに影響してきたらしいのだ。
より深刻な"くも膜下出血"などではないと聞きホッと胸をなで下ろす。明日の午後に手術が予約され、頭蓋に小さな穴を開けてチューブで血液を抜く外科的処置を受けるとのこと。予断は許せないので、当然に明日は一日仕事を休んで待機することとし、看護師や医師から事前の説明を終えて病棟の消灯前に病院を後にして、いまだ吹きすさぶ春の暴風に車を煽られ折れた木の枝などを避けながら、泊まり込むための実家に着いた。
親族の関係といえばしばらくの間、大方のことが平穏に過ぎてきたが、有事というのはいつも突然にやってくるものだなあと就寝のために仰向けになり天井を見ながら思う。それにしても、僕が面倒をみるべき三人の高齢者のうち、まさか最も若い僕の母に最初に危機的局面を迎えるとは。「逝く順番を間違えないようにしないと…」などと母と以前軽口を言っていたことが思い出される。それはともかく、片親で兄弟もなく家系的に寂しい思いをしてきた母には、まだ学生である僕の子供達の行く末をじっくりと見て欲しいとの気持ちもあり、手術の成功と回復を祈るのみだった。
一夜明けると、ふるさとの街なかは一面白い世界に。新潟での春先の低気圧による暴風に続いてありがちなのだか、前線通過後の寒気入りで一気に雪模様となり、下界に白銀を纏わせた。看護師からの指示で手術前後に使う大型のバスタオル数枚や衣類などを抱えて病室に向かうと、母の表情は明るく特に変調もなさそうだ。担当看護師から母と共に改めて術前の説明を聞いて予定どおりの手術時間を迎え、僕は電話で呼び出しがあるまで実家で待機することに。
手術は無事成功。術後の主治医は、こちらの心理的な緊張と緩和の激しさなどつゆ知らぬように、こともなげに淡々と説明する。6日もすれば退院という。頭蓋に穴を開けるとは一大事と考えていたが、外科的にはその程度のものらしい。退院予定日までの間の休日に面会すると僕の母からは術後の痛みとか不調の訴えはなく、隣の機械室がうるさくて眠れずに病室を変えてもらったことを冗談含みで話してくるほどで、安堵感すら出てきた。
順調な回復により予定どおりの退院日に休暇を取って母の送迎を済ませ、病後を勘案して当面は買い物に出掛けずとも良いようにと食料品の買い出し備蓄などをして僕が実家を後にするとき、母は気丈に見送ってくれた。僕の母くらいの年齢ならよくある疾病であり、今時では大変と言うほどでもない手術を経て、想定通りの回復で一段落ということになったわけだが、僕にはこの度の一件が、僕が担うことになっている母やおばちゃん達の面倒見について改めて意識させて覚悟を迫る警鐘のように思うのであった。
(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」の「その17」に続きます。)
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。