新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代71「一飯の恩義と再起動」

●一飯の恩義と再起動

 秋の防風雨によりアパートのトタン屋根がめくれ上がって雨水が入り込み、避難のため着の身着のままで愛車に乗り込んで友人宅を頼んで泊まらせてもらうと、激動の展開の夜だったにも関わらず、寝酒に頂いたブランデーが利いたのか以外にも熟睡できたようだ。
 昭和62年11月22日の日曜の朝目覚めると、同じ広間で寝ていた友人は既におらず、階下から話し声が聞こえてくる。ジャージ姿のまま階段を降りると、友人がダイニングのテーブルで新聞を開いている横で、友人の母親が朝食の準備を進めていた。そういえば、彼は子供の頃に父親を亡くした一人っ子で、母子二人で暮らしてきたと言っていたことを思い出した。初めてお会いする彼の母に、朝のご挨拶とともに昨晩はドタバタで夜も遅かったので挨拶もせずに上がり込んだ非礼のお詫びと泊めていただいたお礼を申し上げた。事情は聞いていましたよ、大変でしたね、との理解と労いの言葉と共に、全然気にしないでゆっくりしていってくださいとの有難いお気持ちをお示し頂いた。
 続けて彼の母親は、「何もないですけれど」との常套句とともに、朝食を用意したのでどうぞ召し上がってと言ってくれる。テーブルには友人の席の向かいに私分が並べられていた。見れば、焼いた鮭に卵焼き、焼き海苔、梅干し、豆腐の味噌汁、イクラの醤油漬けまで並ぶ。これは最高に整えられた日本の朝ごはんだ。一人暮らしが長く、鉄工所など共働きの両親で朝食など慌ただしく簡単に済ませていた私には、絵にかいたような和朝食を前にして感激に震えそうだった。向かいでは「朝飯は毎日こんな感じ」と言いながら無造作に白米を掻き込んでいる。こいつは母子家庭とはいえ幸せな暮らしをしてきたのだろうなあということが、朝食を見ただけであっという間に分かったような気持ちになった。
 正に「一宿一飯の恩義」とはこのこと。好意に甘えて長居は禁物であるし、雨水の入り込んだアパートの部屋がどうなっているか、その後始末や大家とのやり取りも速やかに始めなくてはならない。暖かい朝食を美味しくキレイにたいらげ、ほうじ茶まで頂きながら、言い尽くしようのないお礼を何度何度も申し上げて、友人の家を後にアパートへと車を向かわせた。
 昨日の雨風はとうに収まってはいたが、時折の小雨と北風がなんの遮りもなく吹き付ける信濃川右岸河口近くの河川敷。そこに建つアパート「水明荘」に半日ぶりに戻りつくと、未だ屋根のトタンが帆船の帆のようにめくれ上がった形で風にギシギシと揺れながら昨晩の傷跡を晒していた。
 部屋に入ると、四方の壁には雨水がしみ込んで流れ落ちた跡が何本もついていたが、床や畳敷きは思いのほか濡れてはいなかった。入居と同時に引いた固定電話も受話器を上げると「ツー」と通じている音が。昨晩は営業時間外で不通だった仲介の不動産業者に電話を掛けると、他の住人からも通報が言っていたらしく、これからこの現場に向かうところだという。
 到着まで部屋の中で濡れて使い物にならなくなった物でも片付けて待つことにして、部屋の中を見渡していると、現状の深刻さが改めて認識されてきた。次に雨が来れば雨漏りの中で生活していくことはできない。早急に引っ越し先を不動産業者の責任で探してもらわなければならない。こんな欠陥物件を押し付けられたのだから。困ったなあという思いはだんだん腹立たしさに変わっていき、これから不動産業者とどう対峙していくかというモードに頭が切り替わっていったのだ。これ以上ないという”日本の朝ごはん”を久方ぶりにしっかりと頂いて、スタミナが沸き上がってきたせいかもしれない。

(「新潟独り暮らし時代71「一飯の恩義と再起動」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代72「不動産業者との交渉の行方」」に続きます。)
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