●不思議なおばちゃん達と僕(その11) ※「連載初回」はこちら
~母の支援で平穏な日々に突如の建替相談~
父が57歳で急死して気落ちしていた母も、暫くして明るさを取り戻し、趣味の革細工の集いへの積極参加など社交性が回復してきた。還暦で自動車運転免許を初めて、しかも勉強嫌いと吹聴していた母が、学科試験も一発で取得したときには驚かされた。世の中で連れ合いを無くした昭和世代の例によく見られるように夫に先立たれた妻というのは比較的回復が早い。中高年になってから妻に先に死なれた夫は、家事や身の回りのことすら十分に出来ず、仕事以外での社交性も低いなど、往々にして残念な状況に陥りがちだが…。
身近なスーパーマーケットが撤退していき、商店街が寂れゆく中で、実家に一人残した母が自動車を使えるようになったことには正直「助かった」との思いがした。僕が自分の車が事情で使えない時に一度だけ高速バスで帰省すると伝えると、母は地元のバス停までコバルトグリーンの三菱7代目ミニカ5ドアハッチバックで迎えにまで来てくれた。乗せてもらうと、なかなかの運転ぶりで、還暦過ぎの母には恐れ入ったものだ。
買い物場所が郊外に"逃げて"いけば母が免許を取って車で"追って"行けるようになるという塩梅となり、荷物も自転車に比べて数倍積めるようになったので、近所のおばちゃん達の買い物の応援も母単独で対処していけた。帰省時に母と出かける用事があった時に、ついでの買い物の希望を聞きに母と共におばちゃん宅へ顔を出したのだが、唯一のしっかり者の真ん中のおばちゃんは、必要な物品名を挙げて母にオーダーするのではなく、新聞折込のスーパーのチラシをつぶさに見比べながら、より安い品を個別に指定してくる。横に座って眺めている年少のおばちゃんが菓子など欲しいものを口出ししても、定価であれば一切採用しない。さすが貧困の中で一人で家計を支えてきたという片鱗が垣間見えた。
年老いて飲み食いの量や衣類の需要などは少なくなったとはいえ、3人分の生活必需品の調達など、特に天候の悪い季節には、車を運転できる僕の母が大いに活躍できた。おばちゃん達一人一人が住み慣れた古い家で、平穏な日々を送りつつ寿命を全うしていくのかなあと思っていたのだが、ある日、しっかり者で節約倹約の鬼であるところの真ん中のおばちゃんが、頼りにする僕の母に相談を持ちかけてきた。「家を建て替えようと思う」というのだ。
母は先ずは驚いたという。先行き何時どのようになるかわからず明日をも知れず、場合によつては施設が終の棲家になるやも知れない70歳前後で身心に問題もある3人のおばちゃん達が、わざわざ家を新築建替することは妥当なことなのか。おそらく僕も一聴すれば反射的に思うことを、母は相談に来たおばちゃんに聞き返したという。おばちゃんは、老い先が短いからこそ最後の数年くらいは新しく綺麗な家で少しでも長く暮らしたいといった趣旨のことを話したという。相談の体で母に話を切り出してきたが、既に腹は固まっていたようだ。しっかり者で倹約家節約家のおばちゃんは極めて頑固でもあった。
それならば…と、元々おばちゃんの気質を熟知する母はもう何も言わない。資金繰りの話しも持ち出さないのでお金の無心ということでもなさそうだし、そんな話しは経済的に余裕のない母からもしない。細かいことは僕や母にも分からないが、お金に厳しいおばちゃんなりに色々と工面しつつ、大きな工務店ではなく近所の個人大工にお願いして破格の安さで話を付けていったらしい。それにしても、姪である僕の母に資金援助ではなく仁義を切りに来たというわけだから、母のおばちゃんからの頼りにされぶりが一層感じられた。
おばちゃん達には家の全部改築ということで、僕の両親がそうだったように、建設中の仮住まいが必要になる。大工さんと相談の上で、歩いて数分のところに空き家を斡旋してもらい、おばちゃん達3人で過ごすことになった。そこまでの家財道具の搬送などで僕も自家用車を使用して応援したのだが、質素に暮らす3人には布団やタンス、食器棚など最低限の調度のほかは14型の小さなテレビくらいであったのを見て、福祉ケースワーカーとして困窮世帯と対応したことのある僕は、生活保護世帯並みの生活ぶりだなあと感じたのだが、何故か、現代日本人の繁栄の源泉と思える古き良き清貧を思い起していたものだ。
残業続きの仕事に加えて休日も自分の子供の相手などで帰省の間隔が空いていた僕は、おばちゃん達の家の建設過程を見る機会を持たずに過ごしていたが、平成7年の春、 連休で実家に戻った時に完成したその姿を見て驚いた。見た目に大きくて立派なのである。
建設途上の折々で状況を覗いてきた母に尋ねると、個人の大工さんがじっくりと要望を聴いてくれて、時間が掛かったものの急がせない分、材料や労務の費用を抑えながら建築してくれたのだという。その大工さんは僕の知人の父親であり、立派な店構えをするでもなく自宅で仕事を請け負うような、正に個人経営の大工さんであったのだが、安価での職人の差配など各種調整に長けていたのかもしれない。僭越ながら「お見それいたしました」とつぶやきたくなるようなおばちゃんの新しい家の出来映えだった。
「せっかくあんたが帰省した機会だから」と、母に連れられておばちゃん達の新居を見せて貰うことに。幼い頃から知っている僕のことなので、家計を仕切る真ん中のおばちゃんはウエルカムとばかり招き入れてくれた。外見は落ち着いたグレー調の今風の外壁で真新しい黒い瓦を載せていて、玄関を入ると確かに三和土(たたき)や床張りの材は真新しいのだが、中に上がらせてもらうと、その構造はどこか懐かしい。そう、部屋の配置などが幼い頃の思い出深い"以前のおばちゃん達の家"のレイアウトに近い造りなのだ。
玄関入って直ぐ横には、板張りの床まで届く二軒ほどの大きなサッシ窓を配した明るい部屋が目に入る。ここは前の家と同様に足踏みミシンなどをおいて作業できる場所としたのだろう。三和土をあがって真っ直ぐつづく廊下の左に台所が広く配されたのは新しいが、廊下沿いに6畳から8畳サイズの部屋が3つ続く造りは懐かしい限りだ。やはり以前の家と同様に、存命する3人のおばちゃんがそれぞれ一部屋ずつ居場所とできるようにしたらしい。ただ、一番奥の部屋は床張りの洋室風にしていて、布団の上げ下ろしが辛くなってきたことから、まとめて就寝できるようベッドを3台配置したのだという。
老婆3人世帯であれば、平屋でも十分であろうに、2階にも広い板張りの洋間や8畳ほどの和室に物干し対応のサンルームまである。お客様用なのか場合によっては人に貸して家賃も取れるようにしようというのか。そうした考えであるかどうかはいざ知らず、今どき常識的な2階のトイレまでは設えていない。僕はそんな指摘は口にはしなかったが、良くも悪くも古典的なおばちゃんの考えに基づいて忠実に築造された、個性的で大きな注文住宅だなあと圧倒させられたのだ。
身近なスーパーマーケットが撤退していき、商店街が寂れゆく中で、実家に一人残した母が自動車を使えるようになったことには正直「助かった」との思いがした。僕が自分の車が事情で使えない時に一度だけ高速バスで帰省すると伝えると、母は地元のバス停までコバルトグリーンの三菱7代目ミニカ5ドアハッチバックで迎えにまで来てくれた。乗せてもらうと、なかなかの運転ぶりで、還暦過ぎの母には恐れ入ったものだ。
買い物場所が郊外に"逃げて"いけば母が免許を取って車で"追って"行けるようになるという塩梅となり、荷物も自転車に比べて数倍積めるようになったので、近所のおばちゃん達の買い物の応援も母単独で対処していけた。帰省時に母と出かける用事があった時に、ついでの買い物の希望を聞きに母と共におばちゃん宅へ顔を出したのだが、唯一のしっかり者の真ん中のおばちゃんは、必要な物品名を挙げて母にオーダーするのではなく、新聞折込のスーパーのチラシをつぶさに見比べながら、より安い品を個別に指定してくる。横に座って眺めている年少のおばちゃんが菓子など欲しいものを口出ししても、定価であれば一切採用しない。さすが貧困の中で一人で家計を支えてきたという片鱗が垣間見えた。
年老いて飲み食いの量や衣類の需要などは少なくなったとはいえ、3人分の生活必需品の調達など、特に天候の悪い季節には、車を運転できる僕の母が大いに活躍できた。おばちゃん達一人一人が住み慣れた古い家で、平穏な日々を送りつつ寿命を全うしていくのかなあと思っていたのだが、ある日、しっかり者で節約倹約の鬼であるところの真ん中のおばちゃんが、頼りにする僕の母に相談を持ちかけてきた。「家を建て替えようと思う」というのだ。
母は先ずは驚いたという。先行き何時どのようになるかわからず明日をも知れず、場合によつては施設が終の棲家になるやも知れない70歳前後で身心に問題もある3人のおばちゃん達が、わざわざ家を新築建替することは妥当なことなのか。おそらく僕も一聴すれば反射的に思うことを、母は相談に来たおばちゃんに聞き返したという。おばちゃんは、老い先が短いからこそ最後の数年くらいは新しく綺麗な家で少しでも長く暮らしたいといった趣旨のことを話したという。相談の体で母に話を切り出してきたが、既に腹は固まっていたようだ。しっかり者で倹約家節約家のおばちゃんは極めて頑固でもあった。
それならば…と、元々おばちゃんの気質を熟知する母はもう何も言わない。資金繰りの話しも持ち出さないのでお金の無心ということでもなさそうだし、そんな話しは経済的に余裕のない母からもしない。細かいことは僕や母にも分からないが、お金に厳しいおばちゃんなりに色々と工面しつつ、大きな工務店ではなく近所の個人大工にお願いして破格の安さで話を付けていったらしい。それにしても、姪である僕の母に資金援助ではなく仁義を切りに来たというわけだから、母のおばちゃんからの頼りにされぶりが一層感じられた。
おばちゃん達には家の全部改築ということで、僕の両親がそうだったように、建設中の仮住まいが必要になる。大工さんと相談の上で、歩いて数分のところに空き家を斡旋してもらい、おばちゃん達3人で過ごすことになった。そこまでの家財道具の搬送などで僕も自家用車を使用して応援したのだが、質素に暮らす3人には布団やタンス、食器棚など最低限の調度のほかは14型の小さなテレビくらいであったのを見て、福祉ケースワーカーとして困窮世帯と対応したことのある僕は、生活保護世帯並みの生活ぶりだなあと感じたのだが、何故か、現代日本人の繁栄の源泉と思える古き良き清貧を思い起していたものだ。
残業続きの仕事に加えて休日も自分の子供の相手などで帰省の間隔が空いていた僕は、おばちゃん達の家の建設過程を見る機会を持たずに過ごしていたが、平成7年の春、 連休で実家に戻った時に完成したその姿を見て驚いた。見た目に大きくて立派なのである。
建設途上の折々で状況を覗いてきた母に尋ねると、個人の大工さんがじっくりと要望を聴いてくれて、時間が掛かったものの急がせない分、材料や労務の費用を抑えながら建築してくれたのだという。その大工さんは僕の知人の父親であり、立派な店構えをするでもなく自宅で仕事を請け負うような、正に個人経営の大工さんであったのだが、安価での職人の差配など各種調整に長けていたのかもしれない。僭越ながら「お見それいたしました」とつぶやきたくなるようなおばちゃんの新しい家の出来映えだった。
「せっかくあんたが帰省した機会だから」と、母に連れられておばちゃん達の新居を見せて貰うことに。幼い頃から知っている僕のことなので、家計を仕切る真ん中のおばちゃんはウエルカムとばかり招き入れてくれた。外見は落ち着いたグレー調の今風の外壁で真新しい黒い瓦を載せていて、玄関を入ると確かに三和土(たたき)や床張りの材は真新しいのだが、中に上がらせてもらうと、その構造はどこか懐かしい。そう、部屋の配置などが幼い頃の思い出深い"以前のおばちゃん達の家"のレイアウトに近い造りなのだ。
玄関入って直ぐ横には、板張りの床まで届く二軒ほどの大きなサッシ窓を配した明るい部屋が目に入る。ここは前の家と同様に足踏みミシンなどをおいて作業できる場所としたのだろう。三和土をあがって真っ直ぐつづく廊下の左に台所が広く配されたのは新しいが、廊下沿いに6畳から8畳サイズの部屋が3つ続く造りは懐かしい限りだ。やはり以前の家と同様に、存命する3人のおばちゃんがそれぞれ一部屋ずつ居場所とできるようにしたらしい。ただ、一番奥の部屋は床張りの洋室風にしていて、布団の上げ下ろしが辛くなってきたことから、まとめて就寝できるようベッドを3台配置したのだという。
老婆3人世帯であれば、平屋でも十分であろうに、2階にも広い板張りの洋間や8畳ほどの和室に物干し対応のサンルームまである。お客様用なのか場合によっては人に貸して家賃も取れるようにしようというのか。そうした考えであるかどうかはいざ知らず、今どき常識的な2階のトイレまでは設えていない。僕はそんな指摘は口にはしなかったが、良くも悪くも古典的なおばちゃんの考えに基づいて忠実に築造された、個性的で大きな注文住宅だなあと圧倒させられたのだ。
(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」の「その12」に続きます。)
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
「ほのぼの空き家の掃除2020.11.14」
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