日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

『午後の曳航』

2014年08月04日 | 音楽 映画 小説  サイエンス  アニメ

 『午後の曳航』  

 

私は三島由紀夫文学の傑作の一つだと思っている。

 

 

内容の詳細はここでは書かない。

興味がある方は読む事をおすすめしたい。

 

三島由紀夫(敬称略させていただく)は紛れもなく早熟の天才と呼んでいいと思う。

「花ざかりの森」を改めて読んでみると、この文章を16才で書いた事実に驚かされる。

 

三島と私の父は同世代だ。

大正14年生まれなので歳の数え方が昭和の年代と同じである。

三島の経歴を読むと、父と似たような運命の中を生きていたのだと実感する。

三島も父も昭和19年で徴兵検査をうけている。

三島は第2種乙種で合格している。

父は当時にしては大柄だが近視で痔の経験があって第1種乙種で合格してる。

 

父によれば、平時は甲種のみが現役兵として入隊したのであるが、大戦末期は

第3種乙種までできたので、この段階で兵隊としての入隊が決まり

なんとも言えない気持ちになったと思いを語っている。

しかしここで即入隊ではない。

戦前の若者は通常の場合は20の誕生日の半年前に予めこの徴兵検査を受けたのである。

そして満20才を過ぎたら召集というのが手順であった。

 

三島は誕生日が1月14日であったから

年が明けた20年2月に入営通知がきて遺品を残し、遺書を書いて入営している。

父は招集礼状は赤紙と思いこんでいたが、現役入隊礼状が白い紙であったので拍子抜けがしたらしい。

三島が受けたっとのもたぶん父と同じ白い現役入隊礼状ではないだろうか。

 

しかし、三島はこの時の入隊検査で右肺浸潤と診断され即日帰郷となる。

私の父は同郷の何人かで入隊検査を受け、やはり数名が肺浸潤という診断で即日帰郷になっている。

この頃はまだ肺結核の死亡率も罹患率も高く、肺結核患者を軍隊には置いて置けないので、

少しでも結核が疑われるものは即日帰郷にして入隊を許さなかったのだと推察する。

三島も風邪を誤診されたようであった。

 

父は後に、自分たちの世代にとって出征は今でいう成人式であったと言っていた。

映画やドラマのように、父も多くの人に署名してもらった日の丸や、千人針を持ち、

予備の眼鏡を4つ揃えたそうだ。

また家の前には近所の人が杉の葉を集めて出征門を作ってくれた。

出発の朝、家族との挨拶も今生での最後と思い、思わず目が潤んだが、

家を出て、出征門をくぐる時には涙を決して見せられないと強く思ったという。

そして出征門の前に立ち、「お国の為に元気にいってまいります。」と

型どうりの挨拶をして見送りにきて下さった方々に敬礼をすると、

誰かの音頭により、「〇〇〇〇君万歳」の声が上がり

そして、産土の神をまつる神社に武運長久を祈ってのち

故郷との永遠の別れを覚悟して汽車に乗ったという。

 

 

父も三島も国の命運のかかる最も厳しい時期に満20才を迎えている。

私の想像するのに、三島は名家出身である。まして母方の祖先は有名な武家であり、

三島自身の出征式はかなりの大掛かりなものであったと想像できる。

 

父も「入隊検査に引っかかり即日帰郷になればいい」という思いと

「即帰では日本男子として恥ずかしくてまっすぐに家に帰れない」という

複雑な思いが交錯したといっている。

 

三島は即日帰郷になり心のどこかで安堵はしたではあろうが、

病気が理由とはいえ、自身と家の面目を立てる事がかなわず、

そうとうバツの悪く恥ずかしい思いをした事は想像に難くない。

 

三島があの時入隊できていれば、三島文学の色合いは変わっただろうか。

確かに三島の後半生の政治的な行動は、青年時の屈辱の裏返しを感じる。

 

父は三島の最後の行動に共感をしてなかったように私は感じている。

私は子供頃、三島が市ヶ谷で演説をし割腹自殺をした事件をTVで見ていた。

その感想を父に聴いた記憶があるが、

父は非常に客観的な説明のみで父自身の心情にそった答えは得られなかった。

私のその時の記憶で一番強く残っている事は、

新聞の記事を読んで、この人にも自分と同じような年齢の子供がいる事を知り

子供たちに同情したという事だ。

「お父さんが有名人でいきなりあんな死に方をされればつらいだろうなあ。」と

新聞の記事を読みながら思った。

それが不安で当時ほとんど話しをしなかった父に事件の質問をしたのだろうと、

今思い返すと納得がゆく感じがする。

 

この事件がきっかけで三島由紀夫は

私にとって「人間とは」という問いを発する時に一つの基準となった。

 

今思うと父にとって軍隊での経験は、

三島の行動ようなロマンテックな美学と相容れない、

肉体的にも精神的にもひどい経験であったから、

三島の盾の会の制服や割腹自殺という命を軽視した行動が、

ナルシジズムに酔っている感じがして嫌悪をしていたように推察する。

 

父にとって軍隊とは

生き残る為に通過しなければならなかった現実の地獄であったのだろう。

 

そんな父の子供の私は、中学生の時に小説家三島由紀夫に夢中になった。

中学時代孤独であった私は、自然と本を読んだ。

4才上の兄の書棚には、志賀直哉、芥川龍之介、川端康成、安倍公房、

三島由紀夫、石川達三、太宰治、など

一般教養としても読まねばならなかったたくさんの文庫本がならんでいた。

 

兄も父にて読書家であった。兄は後に建築士になる程の理系の人で無心論者であったが、

青年期の悩みの中多くの小説を読んでいた。

私はその中から三島を借りて読んでいた。

そして書棚に並んでいた本を読み終えまだ読んでない作品を探しては全てを知ろうとした。
 
三島の持つ天才性、簡潔さ、

また伝統や文化芸術にに対する態度や、新しい芸術性を認める感受性にも驚嘆した。

そしてなによりも、人間の深遠の闇や毒、性の根源的な衝動の醜さと美しさを隠す事なく暴きながら、

時には彫刻をほるように描写し、時には絢爛豪華なフレスコ画のような筆致で表現する文体が、

まるで音楽を奏でいるように響くのを感じた。

「世の中にはこんな人がいたんだな」と、すでに死んでいたにもかかわらず

三島は私にとって改めて英雄(ヒーロー)になった。

 

私が、『午後の曳航』を読んだのはそんな中学2年の時だった。

私にとって、この本は口にだしては言えない経験を与えてくれたと思う。

私はこの本との出会いによって、自身の深い部分の毒を見つめる事に目覚めたように思う。

 

父と違って、私は三島の耽美的で肉感的な美学が嫌いではない。

生命や性に対するありとあらゆる表現を、芸術の域にまで高めてしまう表現力に

酔い、打ちのめされた。

 

佐世保の加害少女は本が好きだったという。

彼女の伝聞での話に天才性を感じると共に、

深い闇と狂気をより強く感ぜざるおえない。

 

三島もまたその精神の奥底にそれに似た狂気の闇を秘めながら

父と同じ激動の時代に弄ばれながらも、

精神の深遠で身じろぎもせずじっとその漆黒の闇を見つめて生きてきたのだろう。

それでなければ、『午後の曳航』のような作品を到底書くことは出来なかったと思う。

『午後の曳航』の狂気はどちらかと言えば、神戸の事件の少年の狂気に近いとは思うが、

しかし、それは闇の奥底で加害少女にも繋がっていると私には感じる。

 

私は中学2年の時『午後の曳航』を読み、

自分の自我の中にその狂気の闇が無いか探した。

そして、自身の中にもそれは蠢いている事に気づいて

震え恐れると共に、歓喜した。

 

それは少年期独特の感覚であり、

性の目覚めや本能のホルモンによる支配に益々さらされてゆく絶望感と快感が合わさったような

感覚であった。

 

 

加害少女が抗えなかった衝動が、少年の時の自分の中にも存在し、

そしておそらく少年期の三島の中にもそれぞれ嗜好を変えて存在していたであろうと、

今の私は感じている。

 

三島はその深い闇や狂気や毒を見事に芸術で表現した

天才であった。

 

毒も闇も狂気も人間の中に存在する。

しかし、それをどう表現するかで人間は殺人者にも類まれな芸術家にもなれる。

そしてそれから抜け出す方法は地道な自己鍛錬しか道はなく

それが身に付かないまま

我が子がその恐ろしい闇や狂気で犯されたとしたら、

「親は持てるもの全てをさらけ出し、血を流しながらも

子という重き十字架担ぐべき宿命なのだと」

かつて闇と狂気を抱えた子供であった自分が

どこかで叫んでいる声が今も聞こえる気がする。

 

 

加害少女は確かに特異な存在ではある。

しかし、彼女の狂気や闇の一部は、人間に生まれたら

誰にでもある可能性のあるものだと疑い

自身の少年少女時代の暗闇の最深部を

もう一度見つめ返して欲しい。

 

その狂気のある闇は、

この目映い夏の午後の光のまぶしさに似ていると

手を翳し陽を見つめながら私は思い出している。