日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

人生のつり合い  「メンドクセー」と好奇心。

2014年08月08日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

人によっては不快になる表現がありますので、

波長を感じて取って、やばいと思われたらそこでご退出願います。

 

 

私は飽きっぽい性格だ。

熱中しては冷めを繰り返し、もう半世紀以上も生きてしまった。

妻には

「あなたの葬式の時には、この人はやりたい事、好きな事は全部やってきた人です

と言ってあげるから。」と宣言されているので、

悔いのある人生でしたとは、口が裂けても言えない状況である。

 

自分は「メンドクセー」が口癖の漫画『鋼の錬金術師』に出てくるホムンクルスのスロウス(怠惰)を

地でゆく人間だと自認している。

私は彼程大男ではないが、彼が戦闘をする時の瞬速ぶりが、

自分が行動を起こすときの集中力やセッカチな感じに似ていて、

彼と自分は似たもの同士だと思っている。

 

怪力をたよりに地下に穴を掘らされている単純作業の繰り返しを求めらる感じや、

生きる事それ自体に疑問をもっているめんどくさがり屋の彼が好きだ。

 

物心つく前から音楽の習い事をさせられていた私は、

その永遠に続くと思えた、テクニックの習得がいやでいやで仕方なかった。

なんでこんな「メンドクセー』事を続けなければならないのか教えてもらえないまま、

母に和裁用の長い竹の物差しで叩かれながら続けるのは、奴隷の気分であった。

 

子供にとって大人が要求する事はたいていは「メンドクセー」ものではあるが、

理由がわからないまま続けさせられるのは、刑罰に等しい事である。

子供の頃にそういう体験があると、たいていは歪むものである。

 

私はその反動が高校を入学した後に出て、後の人生は親が期待したであろうものとは

違う人生を歩んできた。まあそれが、「三つ子の魂百までも」が成したものなのか、

親の後天的な教育の成果なのかは今となってはどうでも良い。

 

私は手の平で踊らされたにせよ、懸命に逃れようとしたにせよ、

自分の「メンドクセー」を好奇心が凌駕した場合は

集中して楽しんで生きてきたと思う。

 

長い「メンドクセー」時間と、楽しい好奇心を満たしてくれる短い時間の連綿と続く

どこにでもあるような人生であった。

 

STAP細胞問題で渦中の笹井氏が自殺された。

もったいない事である。再生医療の分野でも大きな損失だろう。

謹んでお悔やみ申し上げます。

 

 

残されたご家族やご本人には非常に不躾とは思うが、

ここは科学の発展の為、

生命を科学する事を専門としていた笹井氏の意識にインタビューができるなら

今の感想を聞いてみたいものだ。

 

胡散臭い大〇総裁あたりが本人を呼び出してやりそうだが、

其のレベルではない、本物の霊能者に今の笹井氏の意識とコンタクトをとってもらい

死後の意識と科学と命について語ってもらえたら、

残された小保方氏だけでなく

多くの生きてゆく事が「メンドクセー」になってしまった人々に

もっとも貢献が出来る、科学的検証ではないだろうか。

 

矢作直樹氏レベルの方が検証実験をしてくれたら、

頭の固い世間も今度は「とんでも」科学とは言わず、真摯に耳を傾けると思う。

命を科学する事を人生の使命とされた笹井氏こそもっとも相応しいと

一般論では失礼で不躾とは思うが、真の科学的な好奇心とはそういうものだと、

私は思っている。 

 

笹井氏の経歴を一目見れば、エリート中のエリートである事は誰もが認める事だろう。

人類への貢献という意味でも、凡人のなすべき仕事の何倍量もされていたであろう。

しかし、普通の人間にしてみれば長い栄光のキャリアのたかが一度の失敗で命を絶つのは、

それこそ命や科学に対する冒涜だろう。

「かっこつけるのもいいかげんにしろ。」と私が彼の友人だったなら遺影の前で思っただろう。

 

自殺をする前から会話が成立しない精神状態であったと伝えられている。

精神的な辛さから脳が正常に機能せずに

理性を凌駕して感情が死を選びたいと思う事は、十分理解できるが、

しかし現実に死んでしまえた氏の人生を考えると、

それで果たしてつり合いがとれるのかと疑問を感じる。

間違いなく死後彼の意識は後悔しているだろうと私は想像する。

 

人間失敗するのが当たり前、生きているだけで儲け物と思える人生なんて

掃いて捨てるほどある。

 

この世で多くを得すぎると、この世で何か失ったと感じた時に

大きな喪失感を感じてしまうものである。

私のような者から見上げれば、笹井氏は何も失っていない。

それこそ、ヨブなら、「あなたが失ったと思ったものはあなたの生命と

どれひとつとして繋がってはいないではないか。」と問いかけるように思う。

そしてそれは、たいていの自殺を考える者にも共通している事でもある。

 

大切な人生の伴侶や家族を失って、自らの死を悲嘆から願うのはわかるような気がする。

しかしそれ以外では他者を殺してしまったりしてしまった事を除いては、

人間が自ら死を選ぶのは、

自分自身が命を与えられた身分である事を忘れ、

「メンドクセー」が好奇心を完全に凌駕してしまったに過ぎないと私は思う。

 

科学者は因果な商売だと思う。

ノーベル賞なんかいくら若い間に素晴らしい理論を打ちたてても、

生きている間に誰かが証明してくれなければ貰えない。

半世紀待った受賞者はたくさんいるだろう。

逆を言えば研究できる場があれば、死ぬまではもちろん死後でさえキチンとした評価が

いずれされるのが科学というものだろう。

笹井氏はまだまだ後平均寿命でいうなら30才前後は生きれたはずだ。

其の時間を科学の為に使う事をどぶに捨てたという事実だけでも

科学者としてはもちろん、人間としてもったいない事であった。

 

私は死者の笹井氏を愚弄しているつもりは毛頭ない。

ただ、科学者として遣り残した事や悔いがあったのなら

今度は死後の意識の命の証明という、魅力的な命題がありますと

デンパ者の一人として呼びかけを鎮魂にかえているだけだ。

 

読まれてご不快に思われた方にはお詫び申し上げる。

人生50年を過ぎるとあの世にいる身近な人が多くなる。

死者に思いをはせるのは日本の良き風習だと思いながら

お盆の近い空を見上げている。