ここ何日か久しぶりにスイッチが入って、政治的な記事を書いてしまった。
言いたい事はとりあえず書いたので
政府、東京都の対応と
コロナウィルス感染症の日本や東京での今後を注視してゆきたいと思います。
東京都民の皆さんはいずれもっと厳しい外出制限になる可能性がありますが
食料の調達はそれほど心配ないでしょう。
首都東京の生活物資の物流を政府が完全に止める事は絶対にないので、
長期戦を覚悟して冷静に対応してもらいたいです。
元々3ヶ月ぶりににブログを書くにあたり
今回の新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の世界的なパンデミックの状況と
『ラルロの嵐』について言及しようと、最初はタイトルに『ラルロの嵐』と
入れていたのですが、あまりにも浮世が危機感がないと感じたので
現実的な注意喚起や政治家への批判が主軸とした内容になってしまい、
霊的、スピ的な話ではなくなってしまったので
タイトルから『ラルロの嵐』を外しました。
気づかれた方がいらしたらそういう訳です。
今日は巣ごもりしている人の為の暇つぶしの話を。
スピ的(スピリチュアル的)な話が好物なひとには
聞き飽きた話でしょうが。
タイトルにある
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は
ゴーギャンのもっとも有名な絵画の表題です。
絵描きを目指して浪人していた時に美術予備校のクラスメイトが自殺し、
何もできなくなってしまった時期がありました。
その折りに、よくゴーギャンの画集を開いて、このタヒチの楽園のような世界の中に
人間の生老病死や魂の輪廻を感じさせる絵を見ながら
彼の魂の行き先に想いをはせました。
昨日も先進国のイタリアで医療崩壊が起き
一日に700人以上の方が亡くなってゆくニュースを目の当たりにして
改めて自分が死ぬ時の事を想像しました。
イタリアでは医療崩壊が起きた事により、人口呼吸器や人工肺の治療を受けるのに
年齢によるトリアージが行われていると伝えられています。
70歳以上の老人にはそれらの治療は行われず、
無治療の状態で次々亡くなっているのが死者が多い原因だそうです。
この事を知った時、日本で同じような決断を下せる医者がどれくらいいるのだろうと
改めて思いました。
また一昨日もイタリアで聖職者の老人が
若者に人工呼吸器を譲って欲しいと言って15日に亡くなったと報じられていました。
私もシニアと呼ばれる年齢に今年なります。
この記事を読んだ時に、もし似たような状況になったらこの老人のように
潔い決断ができるようでありたいと思いました。
私に臨死体験はありませんが、以前
に書いたように全身麻酔をした時に「意識の喪失」をした経験はあります。
それは、イチ、ニ、サン、と数を数えさせられた瞬間から
担当医にビンタをされて起こされるまで時間が一瞬に跳躍したような
不思議な体験でした。
手術中、15時間の間の記憶が全くなく、その時私の自我意識は
完全に消滅、または無に帰っていました。
その状態こそ
普通の人が思い描く死のイメージに近いのではと思います。
意識がなくなった後、自我を認識する事がないのですから
生きる事が苦しい人たち、自殺を考えるような人たちにとっての
理想的な結果だと思います。
でも残念ながら、私の今まで経験した事から予測する結果は
死後も自我意識は存在するだろうと言う事です。
私は何度もこのブログ内で書いてきましたが運命論者です。
所詮、この人生の大枠は宇宙のメインフレームによって決められていて
人間はその枠組の中でしか自由度はないのだと。
誰かが、本で書いていましたが、
CD板を個人のアカシックレコードに見立てた時
人間に自由があると言ってもそのCD板に書いてある事柄からは
逸脱できず、その違いはゲームでいうなら
分岐点からのエンドが複数存在する程度のものなのだと。
人は場所も時間も環境も選んで生まれて来るとは
ほとんどの方は思って生きていないでしょう。
でも私は、半世紀以上生きた経験から今言える事は
人は生まれる場所、時間、環境を選んで生まれてきていると
考えた方がこの不条理で不公平な浮世を理解するには
納得しやすいと思うようになりました。
自殺は別として、自分の寿命を知って生きている人は
余命宣告をされた方以外はほとんどいないでしょう。
私は1995年から2000年まで、青山秀圭さんの著書に
影響されて様々な事をしました。
その一つがインド旅行ですが、そのインドの旅行を決めるきっかけの一つは
青山さんが著書に記した、館を訪ねた個人の運命が記された予言の葉っぱを
読んでみたいと。
自分の『アガスティアの葉』を探しに行きたいと思ったからでした。
『アガスティアの葉』
(紀元前3000年頃に実在したとされるインドの聖者アガスティアの
残した予言を伝えるとされる葉のこと。個人の運命に対する予言が書かれている。)
wikiより
のち後、この 『アガスティア葉』の真贋問題や詐欺ツアーなど色々と問題が起こりましたが、
当時の私はそのブームの真っ最中で真剣に自分の運命の葉が存在するなら、読んでみたいと
疑いもせず思っていました。
何しろ箸にも棒にも引っかからないものに引っかかる才能だけはありましたから。
『アガスティア葉』には生まれて死ぬまでの
訪ねた人間の人生の軌跡が書かれているとの事でした。
散々迷ったあげく
結局私は、『アガスティア葉』の占い館を訪ねませんでした。
自分の寿命をウソにしろホントにしろ、知ってしまったら、
自分のような人間はそれに捕らわれて、以後純粋に人生を楽しむ事が出来なくなるだろうと
思い至ったからでした。
今現在、当時の決断を振り返ってみると、それで良かったとつくづく思います。
それから以後、身内の不幸やら、仕事での挫折、リストラ、大病、災害など、
あらかじめ知っていたら、その出来事に向き合う前から
そのストレスだけで心を病んでしまったと思いますから。
スピ的によく言われるのは、自分の人生は自分で設計して生まれて来るが
その事を一切忘れてしまっていると。
次元の高いあの世からわざわざ三次元のこの世に生まれるのは、
魂とか意識レベルの修行と向上の為で
それ故に多くの人の人生は試練が多いのだと。
赤ちゃんが泣いて生まれくるのは、そういう辛い事をこれから
人生で体験しなければならないからだと、まことしやかに言われています。
確かに笑って生まれてくる赤ちゃんがいたとしたら
さぞや不気味な事でしょうね。
もし本当にそのようなシステムで人間が三次元に生を得ているとしたら、
それは、ラノベやアニメで流行の
フルダイブ型のヴァーチャルゲームをしている事とほとんど違いがないという事です。
唯一の違いは、ゲームでは、死んでも現実の肉体が三次元でゲームをしている存在だと
元々認識してゲームをしていますが、この三次元を生きる人間の意識は
死ぬまではその意識の主体が三次元の肉体の外側にある事に
ほとんど人間が気づけない、または死ぬまで知らないという事です。
私も死ぬのはあたり前ですが、怖いです。
ですが、子供の頃から、あの世の話を宗教で刷り込まれ、
成人してからは、精神世界や、スピリチュアル世界で人間の意識という
存在のありかを探してばかりいたせいでしょうか
どうも人間は肉体という有機物のボディを使ってヴァーチャルゲームをしている
表面上の自我とは別に意識の主体(本体)が時間と空間の存在しない次元に
存在していて、その存在が
感情を体験する為に有機物のボディに生まれて来るのではと思えるようになりました。
そして、人生の折り返し点を過ぎ、
子供、孫と2世代先までもこの手に抱く事ができ、
生物学的な役目を終えたヒト科の成人だという自覚が有る現在は
物質的な肉体的死は役目を終えた生物としての必然に
過ぎないように思えるようになりました。
生死は感情面においては、幸不幸に置き換えられがちですが、
寿命という観点で見るならば、生物学的な役目を無事終える事ができた
私のような存在はただそれだけで十分満足を得られるものなのだと
最近思うようになりました。
それ故に、肉体的な死を迎えた時に、別にあの手術の時の
「意識の喪失」が起き自我消滅したとしても、恐怖感や安堵感は
恐怖感や安堵感を感じる自分が存在しないのですから、何も心配する必要ないですし、
かねてから予想している通り、あの世での目覚め、
自分の人生の振り返りをその場でさせられるなら、
それはそれは、けっこうワクワクしてしまいます。
何故なら、自分が設計し体験したゲームを自己採点をするのは
身が縮むくらい恥ずかしいでしょうが、中々楽しい作業だと思えるのです。
平凡な人生において、それなり生きる続けると
自分自身の死を恐れたり、ただ忌みきらう事が少なくなっていけるのは
祝福なのだと素直に今は思えます。
ただ、やはり自身の命以外、家族や身近な人たちの命が失われたり
脅かされるのはことにおいては、感情を平静に保って居る事はまだ出来ません。
今回のように、多くの国民や家族に、命の危険が及ぼうとしているのに、
経済やオリンピックを天秤に掛けるような対応しかしない、政治家などには
肉体を持って生きる意味でもある、怒りの感情を持て余してしまいます。
もし私が、仏教で一般的に理解されている悟りをひらいているのなら
そのような事に心を揺れる事もないのかもしれませんが、
肉体を持って生きている以上、深く感情を味わいその先にあるものまで
出来れば到達したいと願っています。
かぐや姫の物語にもありますが、天上人には感情の起伏がありません。
何故なら、感情とはあくまでも物質や物質的な概念に起因するものだからです。
それ故、意識の主体が存在する次元にも我々のような感情は存在しません。
肉体をもたない意識の主体は何故、わざわざ彼らにとって、
牢獄のような肉体に入ってまでそのようなゲームに挑むのか、
本当に魂の向上とか意識レベルの向上の為なのか。
そのあたりは
もっともっとフライウェイを極めて生きている間に確証を得る事が出来るのか
もしくは肉体死を体験した後に答え合わせが出来るのか
いずれにせよ楽しみにしています。
ビッグバンによって時間と空間と物質が生まれたこの三次元宇宙は
別次元に存在する意識の主体(本体)にとって、
都合の良いゲームのフィールドなのだろうと思います。
ビッグバンによって生まれた宇宙の中で
かなり遅れてできた星である地球が(鉄という重い金属がコア)
育み生まれたヒトという生物の重要な構成要素として、
ヘモグロビンの中で鉄と酸素が結びつき呼吸の重要な要素になっている事や
地球の表面がH2Oの水でほとんど覆われるいる事。
私たちの肉体の70%近くが水分である事など。
有機ボディの構成の中心元素が炭素である事などなど、
人間を構成する肉体が、ビックバンから始まる宇宙と星の物語のひとつの終着点であり
我々はそれらの材料を元に作られた肉体を持つ『星の子供』と言って良い存在なのだと
今は思えます。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
人はただ生老病死の為に生まれ出でるのではなく
生き通しの命の一時期を、地球の子供として生き死ぬのだと。
我々は見えなくなって消え去るのではなく
肉体を地球に返した後は、意識の主体に戻り自身の生まれ出でた先を
また目指してゆくのだと。
そのように思う時、
やがて迎えるであろう死も、とても光栄な事に思えるのです。
願わくば、その瞬間を静謐な気持ちで迎えたいものです。
痛かったり苦しいのは嫌だけど、
「お前が、私の死か!」
と風の谷のナウシカの登場人物であるクシャナのような
カッコイイ台詞を言える未来もまた想像できません。
まあ、自分で書いた筋書きに納得できる死の体験である事を
オタクらしく
アニメ攻殻機動隊に登場する好奇心の塊のようなAI多脚思考戦車のタチコマに
「君も死を体験出来たんだね」とうらやましがられる未来を信じて。
フライウェイ視点での意識と宇宙全体のシステムについては
に詳しく書きましたので、ご興味がお有りの方は一度お読み下さい。
究極のトンデモが書いてあると自負しております。
暇つぶしにはもってこいの濃い内容となっております。