どうでも良い話をひとつ。
デンパ系(死語と思いつつマイブーム(これもほぼ死語)なのでまだ使います。)の話です。
忙しい方、波長的に無理な方は読まない事をお勧めします。
誰でも有る程度生きてくると、他人のそら似的な場面に
出会った事があるとおもいます。
人から「誰それさんに似ている」と言われたり、
そこには行ってないのに「昨日どこそこで見た。」と言われたり、
自分とは違う誰かと似ていると言われる事はままあることです。
私は社会に出てから、自分があまり人の顔を覚えるのが
得意でないことに気づきました。
最近は歳のせいも有り、なおの事ひどくなってきている気がします。
意識をして見ているつもりでも、顔を覚えていなかったりして、
けっこう不快な思いをさせてきたと思っています。
ある時、ブラットピットが同じような事を告白していましたが、
相貌失認というらしいです。
ひどい場合は自分の顔もわからなくなるそうです。
彼の場合は完全に病気で辛かったでしょうが、
私の場合は本人の興味のない人は覚える気がないというのが、
ただ単にはっきり出てしまうという、自業自得パターンだと思っています。
そんな私が、顔を意識的に覚えようとして思うのは、
人間の顔のバリエーションは以外に少ないのではないかという事です。
私が区別できるのは、日本人的な東洋人だけですが、
人の顔はそれほど無限のバリエーションでできているわけではないと
最近は感じています。
(最近ネットで画像を並べてそっくりさんを見つけるのがありますが、
マッカーサーとブルースウィルスとか結構似ています。)
外国人が日本人を見て同じに見えるというのもわかる気がします。
せいぜい10の大きな雛形があって、後はパーツがランダムに組み合わさっている感じがします。
若いうちは違いは目立ちます。すべてのパーツがはっきりしてますから。
でも歳を取ると、当然輪郭がぼやけてきますからなおの事、
パーツの違いなどは老化の影響に比べたら大した事はありません。
みんなまとめて、おじさん、おばさん、お爺さん、お婆さんになるわけです。
話がそれました。
まあそんな風で他人の空似と言っても自分としては、
別に不思議な事ではないなと勝手に分析しておりました。
ある時新聞の本の紹介欄を読んで気になったので、
ある本を購入しました。
その本の著者は既に亡くなっていたのですが、
裏の著者紹介に載っていた写真を見て、
自分とあまりに似ていたのでびっくりしました。
その方と私は歳はひとつ違いで、誕生月は同じでした。
病気で亡くなられたのですが、大病をされていた部位が
私も子供の頃から弱い部位でした。
他人のそら似というにはあまりに似ていて、
その後に本を読むと
とても奇妙で言葉では中々言い表せない
神妙な気持ちになりました。
写真の角度のせいもあったかもしれませんが、
自分自身が写っていると思える他人の空似は初めてでした。
世間には自分と似た人は3人いると言われますが、
私は間違いなくその一人を見つけたと思いました。
そしてふと思ったのは、その方がもう亡くなってしまったのに
私の人生はまだ続いているという不思議な感じでした。
別にその方が生きて、私が死んでいたとしても
この世界では対して違いのない事なのだろうに。
そして、そんな風な事を考え続けているうちに
自分は世界に一人だけの個性で生まれてきたわけではなく、
似たような風貌、似たような声(骨格が似ていると声は似るので。)
そして似たような好奇心(本の内容から)を抱く精神をもった
兄弟みたいな存在が
まだこの広い世界にはいるんだなと、思えるようになりました。
そしてそう考えると、
自分自身は特別なオンリーワンでもないが、
自分一人だけが個性の可能性を試されているわけでもないと
力の抜けた気楽な気持ちになれるのでした。
この変な文章を読んで下さったあなたにも、
あなたと同じ顔と、同じ声と、同じ好奇心をもった方がいて、
あなたの知らないどこかで、
今日も泣いたり笑ったりしていると
私はおもいますよ。
そう想像する事で、
人生の視点をちょとずらして見る遊びのきっかけになれば
面白いのではないかと、
デンパな話が好きな私は思ったのでした。