本屋さんの前を通る時に
たまに、何か本に呼ばれている気がする時があった。
そんな時に立ち寄って中に入り、しばらく店内をぶらぶらすると、
自然と目につくくタイトルとか、帯とかの本があり、
手に取って立ち読みをしてしまう。
手に取った本に、何か気になっていた事のアドバイスなり、
物凄く興味をそそられる事が書いてあったりすると、
「この本が呼んだのだな。」と思うのであった。
ある時新宿の紀伊国屋の前を歩いていたら、
例によって呼ばれた気がした。
しかしその時は特別で有る歴史的人物の名前が
胸の奥から聞こえた気がしたのだ。
まあ、おかしな事は疑わないで乗ってしまうたちなので、
そのまま店に入り、いつものように店内をブラブラした。
するとフロアーのすみのコーナーに平積みしてある本の一つが、
いつものように呼んでいる気がして、手に取ってみた。
タイトルだけでは何の本か今いち解らないので、
開いてみると、さっき聞こえた気がした人物の自伝であった。
流石に自分自身もびっくりしたが、これは読むしかないと思い
即座に高かったが買ってしまった。
この本はスピリチャル系に嵌っていた私を
散々振り回してくれたが、
今思えばそれもまた、人生の教材の一つの思い出として、
今も本棚で自慢げに背表紙を見せている。
良い本との出会いは、
人生を豊かにしてくれる。
しかし、私のように本に振り回されて、
今思えばさして重要でもない事にこだわり、
偏った考えに自分を縛ってしまう事もある。
本、インターネットはもちろんそうだが、
全ての情報はまず疑ってかかる客観性を持つ事は、
人生を踏み外さない為には大切な素養だと思う。
例としてオウム真理教がある。
あのインターネットのない時代、
麻原の宙に浮いている写真の載っている本を手に取ったが為に、
何人の優秀な人物の人生が狂っただろうか。
私も当時手に取って見たが、その時は胡散臭さが先にたって、
とても全部読む気にはならなかった。
でも私自身の人生を省みると、ほんのちょっとした違いで
オウム信者になっていた可能性を否定する事はできない。
私は若い頃は何事も熱中するタイプで、すぐに騙される人であった。
ある人から、「あなたは箸にも棒にもかからないものに、ひっかかる才能がある人」
と指摘されたが、人生を振り返ってみてまさにその通りだと実感している。
ありとあらゆるものに引っかかり生きてきた結果
私はいろいろな事がめんどくさくなってしまった。
そしてその一つの結果として
ある時から本屋に行くのを意識的にやめてしまった。
馬鹿は極端に走るものである。
でも人生そんなふうに思えるような経験もまた運命なのだろう。
前向きに生きるだけが人生なら
それは味わいの薄いものになってしまうだろうから。
この間久しぶりにまた本に呼ばれたような気がした。
少しだけ頭に記憶がよぎったが、
自然と店内に入っていた。
長らく忘れていた
若々しい森の雰囲気が心地よく
本を手にするまでもなく元気がもらえた気がした。
私みたいな人間には、
やはり本屋さんは生きる糧なのかなと、
呼び掛けてきた艶やかな表紙の新刊本を手にとって
「こんにちわ」と目で一人挨拶をした。