皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

有識者会議の論点整理について(男系男子論の意義の確認の必要性)

2005-07-27 01:26:05 | 皇室の話
平成17年7月26日の有識者会議の後、同会議による論点整理が公表された。
筆者としても、かなり待ち遠しいものであったが、一読した感想は、あまりにきれいにまとまりすぎているということである。
125代続いた皇位継承の在り方について論じる材料としては、迫力というものにやや乏しいように感じられた。
この迫力の乏しさは、価値中立的であることに徹しようとすることに由来するのであろう。
ただ、改めて考えてみるに、政府の諮問機関が、あまり価値観を盛り込んだ迫力ある資料を唐突に公表するというのも、何だか奇妙な話であるかもしれない。
そういう意味では、良心的に、精一杯努力して作った資料であると、まずは、評価するべきなのだろう。
ただ、それだけに、読み手の立場としては、当該資料においては、皇位継承の問題を考えるに当たって必要となる要素の全てが盛り込まれているわけではないこと、特に価値観ということについては,自ら意識的に考えねばならないものであるということを、自覚しなければならないのだろう。
ここで、筆者として、特に価値観というものを思いめぐらすべきは、男系男子論についてであると思っている。
なぜならば、まず、論点整理の3ページ目において、「「男系男子」であること」を今後どう考えるかが論点」となる」とあることからは、男系男子の意義ということが,焦点となるはずだからである。
そして、女系容認の立場に立つ者としても,最終的に女系容認に踏み切る際の決断を盤石なものとするためには、なおさら、男系男子論の意義を深く理解し、まずは受け止める必要があると考えるからである。
そこで、今回は、男系男子論の背後にある価値観について、筆者なりに、改めて思いをめぐらせてみることにした。
この点については、6月19日付けの「「現在」における男系男子論の本質」の中でもある程度触れたことではあるのだが、さらにいろいろと考えてみると、その深層においては、必ずしも皇位継承の仕組みの枠の中だけの問題ではなく、もっと広い問題意識が存在しているように感じられてくる。
それは、結論的に言えば、皇位継承の危機にある現状について、それを前提に考えるのではなく、そのような現状が生じたことの由来を追求し、むしろ,そのような現状をこそ、ひっくり返すべきではないかという意識の存在である。
どういうことかと言うと、現在の皇位継承の危機の、そもそもの原因を遡って考えれば、GHQの影響下における様々な改革の一環としての皇室改革ということがあり、旧宮家の臣籍降下ということが大であったのではないか。そうであるとすれば、そのような改革の帰結としての現状をこそ見直し、本来の主体性ある日本の姿に立ち返るべきなのではないか。GHQの施策の影響に由来する現状を前提として、その現状の枠内で解決策を考えるというのは、日本の主体性に対して無自覚であり、そのような解決策が採られるとすれば、あまりに無念である、ということである。
以上は筆者の推測であるのだが、男系男子論の背後に、このような価値観が潜んでいると考えれば、一見、男系絶対主義的な主張を行う者が、同時に、まずは男系継承の方策の努力を行うべきであるというような言い方をし、その限りでは女系を容認しているかのような矛盾を生じているのも、理解しやすいであろう。すなわち、そのような論者というのは、表面的には,皇位の正統性について論じているようでありながら、その実は、いわゆる保守派好みの日本の姿に、分かりやすく言ってしまえば戦前の日本の姿に立ち返るべく、努力すべきことを主張しているということである。
このような価値観については、なかなか根が深いものであるように思うし、筆者としても,理解できるところはある。
ただ、筆者としては、いろいろ悩んだ結果、やはり、このような価値観については、克服しなければならないと思うに至ったのだ。
何よりも大きな問題としては,戦後における皇室と国民との歩みを、十分に見つめていないということがあろう。
占領下における改革については、それは当時の日本として、確かに不本意なものもあったであろう。
ただ、戦後60年、本当に国民が変えようと思えば変えることも可能な状態でありながら、既に、ここまで、歩んできてしまったわけである。
そして、皇室におかれては、新しいお立場において真摯にお務めを果たされ、新たな道を切り開かれてきたわけであるが、そこには、敗戦を経てなお、そして、めまぐるしい時代状況の変化の中で、日本が歴史的連続性をもった存在であることを確保するということが、念頭にあったはずである。
そのような、皇室と国民との戦後60年の歩みというものは、日本の歴史的連続性を確保するためにも、大切にするべきなのではないか。
そのような歩みを大切にし、積極的に評価するのであれば、まずは今の現状を受け止め、今の現状を前提に考えるべきなのではないか。
そのように思うに至ったからである。
コメント (10)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 皇室について論じることの苦しさ | トップ | 現在及び将来に於ける皇室と... »
最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
素朴な質問 (西田瓜太郎)
2005-07-31 22:59:41
確かに、素朴に質問されてしまうと、いざ説明するというのは、なかなか難しいものがありますね。

事柄の性質上、誰かに教えられて理解するというような論理の次元だけの問題ではなく、やはり、多分に、自分自身で感じ取らなければならない感性の次元の問題であるからかもしれません。

私たち一人一人の存在というものが、共同体の歴史の集積の上に成り立っていることに思いを致しますと、象徴としてのお立場にある皇室については、本来、興味深いテーマであるはずなのですが、不思議ですね。

国を失うかもしれないという経験をしたことのない日本人にとっては、そういうテーマについて、あまり深く考えないという傾向が、染みついてしまっているのでしょうか。

ただ、普段はそうでも、ちょっと意識的に考えれば、結構ピンと来るという人も、意外といそうな感じは、いたします。

ところで、姪御さんのご質問については、主に、コミュニケーションの趣旨でなされたのだと思いましたよよ。
返信する
私見 (中野正志)
2005-07-31 19:00:03
 昨日、十数年ぶりでドイツ在住の姪が十数年ぶりに我が家を訪れてきて、素朴な質問を乱発され、癖壁しました。

 彼女いわく、「なぜ、日本は男系男子にそうまでしこだわるの」「雅子さんはある程度覚悟して皇室に入られたのに、なぜ『適応書外』陥られたの」「彼女が根をあげたのなら、無理して皇室制度を続ける意味がどうしてあるの」

 大ざっぱな説明をしましたが、最後まで解せぬ顔つきでした。海外ぼけはあるにしても、これがわが国の日本人の代表的な理解と言えるかも知れないと思うようにもなりました。とすれば、週刊誌沙汰程度でしか、皇位継承問題でも国民的な関心が盛り上がってはこないはずです。

 ただし、海外の人から見ると、それまで実在感が薄かった皇太子は、昨年の五月の「人格否定」発言以来、好感度はうんと高まったようですが。

 昔は、「曖昧さ」が日本独特の知恵であったように思いますが、戦後のアメリカ合理主義が導入されて以来、「曖昧さ」を多元方程式で説明する難しさに見舞われてしまったようで、私も途中から説明をあきらめてしまいました。

 実は、「男系男子」説に固執される方々も、そのむきになり方を見ると、明治以来のの西欧コンプレックスの反動とも多々感じらますので、さらに事態をややこくくさせています。

 美智子皇后が確か七年ほど前に英国諸国を訪問される際に、「皇室の役割は、絶えず移り変わる社会にあって、変わらぬ立場から、長期的に経緯を見守り、すべてがさのあるべきように祈り続けることではないか」という発言をされましたが、その「祈り」の意味はなかなか国民には理解されにくいのでしょうね。

 現代においては、「祈り」ですら、原武史氏のような解釈をされてしまう時代になってしまってきていますから。

 

 
返信する
奥様によろしく。 (西田瓜太郎)
2005-07-31 01:07:36
コメントを拝見いたしまして感じたのですが、素敵な奥様でございますね。

ごちそうさまと、申すべきでしょうか。

私の家も、実権はすっかり妻にありますが、これがなかなか強力です。

生活する上での様々な関係につき、大きく、家庭を基点とする関係と、職業を基点とする関係とがあるとして、男の立場としては、後者の方を重視する人が多いと思いますし、また、得意でもあると思うのですが、実感としては、前者の方が、身に迫る影響力は大であるのかも。

私も、日々、女性の強さと賢さを実感しております。

ところで、出版のお話ですが、私がこのブログにて書いている趣旨は、皇室をめぐる世間での議論を見るにつけ、物足りなさを感じたことが、始まりです。

あまりに他人事のようではないか、興味本位ではないか、自分と皇室とのお付き合いの自慢なだけではないか、皇室と日本人の幸せを考えるという視点が欠如しているのではないか、そのように感じたわけです。

そこで、こういう見方もできるのではないかということを、一つ、世の中に投げかけてみようと、そういう気持ちもあったわけです。

ですから、私の書いている部分については、特に著作権などを主張するつもりもありませんし、仮に読んでいただいた方が幾ばくかの刺激を受けることがあったとすれば、私のことなど気にしないで、自由に使っていただければと思っております。

そういう気持ちからは、現在、閲覧者のごくごく僅かな状態にあることからすれば、なかなか有り難い申し出ではあります。

ただ、一方で、閲覧者が少ないであろうという予想の下、名指しでいろいろな人を随分と非難してしまっている箇所もあったと思いますので、そういう箇所は、見直しが必要であるかもしれません。

と、このように言いましても、今回の申し出につきましては、やはり、中野さんの存在感が大きいのでしょうけどね。

返信する
蛇足です (中野正志)
2005-07-30 18:42:48
 なんだ、西田さんの家も結局は、女性が実質的な支配権をもってるのではありませんか。

 ここらのパラドックスが、日本社会の奥行きの深さだと思いませんか。

 私の妻は、高校教師から出発して、私の転勤に伴い、十以上の職業を経て、目下はヘルパーに転じています。彼女の収入は微々たるもので、経済的には私が支えてきたのですが、ほんんどボランティアに近い仕事を黙々とこなしてきました。その「カミ」さんには頭が下がる思いがしています。

 だれもが嫌がる自治会長に抽選で決められた人が泣き出したため、自分で名乗りを上げたり、不登校児の面倒をみたり、私の実母の終末に全力投入してみたり、馬鹿なことばかり引き受けてきていて、有難い面ももちろんあるのですが、私は悩まされ続けてきたというのが、率直な気持ちです。最後の決断は私がしてきましたが、我が家の権限は、「カミ」さんに握られているのが実態です。

 ですから、西欧的な男女平等思想とは違って、日本的な「カミ」さんの思想の奥行きはなかなか深いものがあるというのが、生活者としての私の実感でもあります。

 私は何度となく上司と衝突し、辞表を書く一歩手前で、先輩たちからいさめられてきたのですが、「カミ」さんはあっけらかんとしたものでした。辞めたければ、辞めていいよと言われるごとに、かえって一家を支える責任感に見舞われ、最終的には定年まで会社勤めを続けれることになってしまいました。

 天皇は男系男子という説も、男のうぬぼれと錯覚でしかないと感じざるを得ませんね。

 ところで、このプログに途中から注目し始めた弱小出版社の編集者から、もっと続けば、編集し直した上で、「新書」として出したいという申し出内々にありました。

 とりあえず断りましたが、西田さんの意向は如何ですか。



返信する
一理はあるにしても (中野正志)
2005-07-30 16:58:19
 西田さんの考え方にも傾聴する余地はあるにしても、やはり同意はできません。

 なぜなら、例えば災害時のお見舞いについても、なぜあちらには出されて、うちにはこないのか、また額の多少についても喧々囂々となるでしょう。皇族は、物欲社会の嫉妬にさらさねかねません。

 どこにどれほど見舞金を出すのかについては、ただでさえ公務で忙殺されている皇族自らが決める余裕はないから、結局、宮内庁の役人がきめることになるでしょう。結局、国費から支援するのと同じことになってしまいませんか。

 このことを良く理解されていたのは、昭和天皇で、かつて臣を称した佐藤栄作元首相が、私費で多額の贈り物を次々に届けたところ、昭和天皇はすべて送り返されたそうです。入江相政日記を読むと、昭和天皇は「佐藤は憲法を知らないね」と嘆息されたようですね。

 皇族に経済の自立性がないというのは、一見、お気の毒のように思われすが、つまるところは、目下は、政治の世界に巻き込むことを避けるための日本的な知恵へと変わってきているように思われます。

 現在の皇族の維持のためには、内宮廷費、皇族費、宮廷費で約二百八十億円使われていますが、英国では国費投入をめぐって議会で厳しい査定を受けていますが、日本の場合は、第八条があるためだけではないにしても、国会でもめるということはありません。

 ですから、西田さんの後者の意見の方が正しいと思います。現在でも、皇室は、日赤、済生会病院、パラリンピックを含めた福祉事業の精神的な支えになっています。この方が健全ではありませんか。だから、第八条は押し付けられたにしても、結果オーライなら良いのではないかと、この点については私はあくまで現実主義に立ちます。

 今朝も六年ほど前に、即位十年記念の明仁天皇の記録集『道』を再再読していましたが、巻末にある「御日程録」を見ると、発言の味わい深さはさることながら、本当にお気の毒のように感じられました。祭祀を含めて超人的な日程をこなされているわけですから。

 首相も多忙ですが、これは本人の意思に基づいて就任したわけですし、任期が決まっているからよいのですが、こうした非人道的な日程を生涯の宿命として担わされている天皇夫妻に対して、国民はどの程度理解しているのかなあ。ついでに言えば、朝日新聞を筆頭にした自社事業の権威付のための皇族利用は目に余るのがあります。

 ところで、「カミ」さんというのは、どこの家でも怖い存在なのですねえ。財布を「カミ」さんに握られているというのも、どうやら西欧ではとても考えられないことのようですが。

返信する
補足の補足 (西田瓜太郎)
2005-07-29 19:53:13
戦後のGHQの施策として,皇室財産に対する方針は,確かに厳しいものがあったようであり,当時として受け入れざるを得なかったというのは,その通りであると思います。

ただ,私が,言いたかったのは,現在においてなお,憲法第8条のような規定を維持しなければならない必要性があるのだろうか,ということです。

私も,皇室の方々は奢侈な生活を望まれていないと思いますが,ただ,「賜与」の制限があることにより,災害時のお見舞いなどでも,ごく僅かなお金しか出すことができませんし,非常に窮屈です。

また,皇室は税金で養ってやっているんだというような物言いがなされることがあり,やはり,経済的な自立性がないというのは,あまりにお気の毒ではないかという気持ちもあります。

なお,お見舞い金の話を例に出しましたが,福祉事業的なことについては,多くの財団もありますし,皇室については,財政的な面ではなく,主に精神的な面で御奨励になるのが,今の時代,相応しいのだという考え方もあるかもしれませんけどね。

ところで,私は,お酒は一応飲める方なのですが,妻があまりいい顔をしないのです。
返信する
皇室制度についての私見 (中野正志)
2005-07-29 19:10:55
私も、現憲法における天皇条項がすべて正しいなどとは思っていません。

 前にも書きましたが、象徴天皇はただ存在するだけでは統合的な機能が果たせません。公的活動を通して国民の理解を得、国民もその公務を通して、皇族に対する親近感を深めるのが筋ですが、現憲法には「公務」の規定が定められていませんから、真っ当に読むと、全ての「公務」は憲法違反になってしかねません。

 ですから、明仁天皇夫妻は、沈黙のままグレイゾーンを綱渡りして、「公務」に励むしかありません。また、「公務」についての理解は秋篠宮の「本来、受け身なものと考えます」との理解が憲法上は正しいのですが、次期天皇に当たる皇太子は、黙々と「公務」に励んできた天皇夫妻の姿を次なる「公務」のあり方について、真剣に考えざるを得ない立場にあります。

 そこで、二月の誕生日の際に、自ら考える「公務」についてテーマを上げたのですが、朝日を筆頭にしたマスコミは、皇太子が引用した詩を引用したのは良しとしても、肝心の皇太子が考える「公務」の内容については、全く国民に伝えようとはしませんでした。

 私の不確かな記憶によれば、読売だけがわずかに報道したように思いますが、朝日の皇室担当記者はなんてバカかと思いましたね。本筋の報道から離れ、情緒に溺れているとしか思えませんでしたから。

 現憲法では、皇族についての「人権」規定がないのも、法的には基本的人権規定に守られているはずの国民の怠慢行為に値します。

 ただ、西田が指摘する八条の「皇室の財産授受の制限」についての理解について、私の判断は異なります。

 第一の理由は、戦後の占領軍が真っ先に手掛けたのは、皇室財産の凍結命令でした。皇室は世界一の大富豪と思え、そこに権力と権威の両立関係が成立したと判断したからです。

 それは、西欧合理主義に基づく錯覚なのですが、第八条的な規定がなければ、当時の連合国の国際感覚からみれば、昭和天皇は戦犯に指定される可能性も大でしたし、天皇制の廃絶に見舞われたかもしれません。それほど、当時の国際情勢は微妙だったのです。

 だから、日本政府としては第八条は無条件で飲むしかなかったと言えます。

 仮にアジア・太平洋戦争について、日本側に一定の道理があるとしたとしても、敗戦国は「ギルティー・コンシャス」を受けるしかない宿命にあります。

 さらに言えば、東京裁判も「勝者の裁き」であったことは間違いないし、東京裁判の判決を前提としたサンフランシスコ講和条約についても、目下のレベルからさかのぼれば、不当との言い分はなりたり得ます。でも、冷戦体制に見舞われたこともあり、これらはかなり寛大な処置だとも言い得ます。

 その結果、日本の戦後は歪な部分を抱えているにはしても、国際社会に仲間入りを許され、経済的にみて世界の大国の一員まで復権することができました。天皇制も明治の頃とは「変形」しながらも維持が許されました。こうしたことから見れば、一定の国際信義を守るしかないのです。

 ついでに言えば、小泉首相の靖国参拝は、個人的な感情からすれば、共感するところがありますが、国際的な信義に立つと認められないという、実にアンビバレンツに気持ちを抱いています。

 第二の理由は、現皇族が奢侈を望まれていないことにあります。昭和天皇もそうでしたが、彼らは実に質素な生活をされてきています。一見、華やかな生活をおくられているいるように見えますが、私が取材した限りにおいては、テレビに映る虚像とは違う生活をされていますし、実に禁欲的です。ですから、昭和天皇が亡くなったあと、明仁天皇は実にあっさりと相続税をはらうことに同意されています。

 これは、美智子皇后の実家の地元の保存運動に対して、「保存は望みません」との発言からも理解できることです。

 中世以来の天皇家は、二百年以上にわたって、大嘗祭もできないほど豊ではありませんでした。我々国民と違って、皇族は総じて言えば、権力欲、物欲がなかったというのが、永きにわたって奇跡的に存続してきた根拠の一つといえましょう。

 そうした皇族の精神性を民族派の方々はどこまで理解されているのか。天皇制度が奥深いのは、形ではなく、その内実にあるように私は考えているのですが。

 ところで、西田さんは、下戸ですか。

 「適応障害」を抱えている私は医者から、飲酒を禁じられているのですが、新聞記者に似合わず、本来は内気な性格ですので、酒が手放せません。かみさんからは、毎日とがめられているのですけれども。

返信する
お返事が遅くなりました。 (西田瓜太郎)
2005-07-28 21:32:14
前回の記事にいただいたコメントへのお返事が遅くなりました。

私も,中野さんとのやりとりは,楽しいと思っております。

周囲にて,なかなか,皇室について深く考えようとする人はおりませんし,たまに話題になる場合でも,週刊誌レベルの興味本位の話題になってしまうことが多いですから。

中野さんのコメントの中に,皇室の方々が,皇室について批判的な主張を行っている人びとの影響を受けてきたということは,面白いですね。

このことと,直接つながるかどうかは分かりませんが,私の体験としても,自分と同じような考え方に立つ主張を幾ら読んでも,あまり,進歩はなかったように感じます。

むしろ,自分とは,反対の立場の方の説を読む方が,自説の不十分なところも分かりますし,また,共感したならば,自説を変えたってよいはずですし。

そういう意味では,真摯な研究に基づく説であるならば,むしろ,反対説の方が,収穫が大きいのかもしれません。

この点,一部保守の方々の論文を読んでおりますと,これこそが保守主義だとか,真の保守だとか,そういう言葉がときどき見受けられますが,一体何を競っておられるのだろうか,という感じがいたします。

若干話がそれましたが,このように考えてみますと,皇室の方々が,皇室について批判的な主張にも耳を傾けてこられたというのは,意義深いことであると思います。

皇室のお立場とは,自分たちを敬う者に対してだけでなく,自分たちに批判的な者たちに対しても,等しく象徴であらねばならないわけですし。

そのように考えますと,皇室のお立場から見て一番困るのは,皇室を敬うという体裁を取りつつ,そのことを傘に着て,居丈高な攻撃的な物言いをする人たちであるかもしれません。大変な親不孝者のようにも,私には,思われます。

ところで,誤字脱字等については,あまり気になりませんので,心配しないでください。

お酒をお飲みになっておられるようで,うらやましいなと思っております。
返信する
若干の補足 (西田瓜太郎)
2005-07-28 20:54:27
中野さんのコメントから刺激を受けて,頭の中の整理が少しクリアーになってきましたので,補足です。

私は,戦後の皇室改革の全てについて受け入れるべきというつもりはないのです。

特に,皇室経済に関する制度というのは,非道いものがあると思います。

国から皇室に対して支出される費用につき,皇室経済法等で定められることについては,合理性があると思いますが,憲法第8条のような,賜与譲受けの制限というのは,あまりに行き過ぎであると思います。

ただ,これは,純粋に制度の話であります。

どなたが皇位に即かれるべきかということについては,単なる制度の話ではなく,皇室と国民との,人間と人間との関係の話ですので,今まで苦楽を共にして築いてきた絆というものを,大切にするべきではないかと思います。

男系男子論の背後にあるのは,本文では長々と書きましたが,簡単に言ってしまえば,敗戦国としてのコンプレックスのように思われてきました。

そのようなコンプレックスがあるために、明治憲法下の日本というものが、とても素晴らしいもののように見えてしまうのではないか。

さらには、その裏返しとして、戦後の価値観というものに対して,否定的になるのではないか。

そのようなコンプレックスを有する者は,キャリアを積まれ,世間において,現代的な女性というイメージが持たれている皇太子妃殿下に対しては,実に冷たい見方をするのでしょうし,また,男女共同参画という如何にも現代的な価値観にダブって見えてしまう女性(女系)天皇というものは,どうしても認めたくないという考え方になってしまうのでしょう。

一方,GHQの施策の効果によって臣籍降下せざるを得なくなった旧宮家の方々に登場してもらうというのは,このようなコンプレックスを解消してくれるような,何か夢のあるものに映っているのかもしれません。

しかし,旧宮家の方々と国民の間には,戦後苦楽を共にしてきたという絆がありませんから,一時的にコンプレックスを解消することになったとして,さて,その存在意義は何かということになると思われます。

男系の血統,Y染色体,そのようなものに対して,国民が,本当に人間としての尊敬の気持ちを抱くことができるかとなると,実に疑わしい。

コンプレックスというものは,時にエネルギーの源泉となることもありますが,目を曇らせてしまうという側面もあり,重大な決断を迫られた際において,大切なことを見落とさないようにする必要があるかと思います。
返信する
西田さんの指摘の基本は正しいが (中野正志)
2005-07-28 19:07:39
 実は、西田さんのご指摘通り、男系男子論者の主張に含意されているのは、憲法改正論なのです。

 だったら、そのことをフェアに言うべきでしょう。その意味では、中川八洋氏だけ論旨は粗くても、理論としては整合性があります。

 でも、なぜ、たかが百四十年弱の明治維新の近代日本にこだわのか、整合性を持って説明できる論者は誰もいません。

 弱肉強食の西欧に見習わざるをえなかったにしても、それ以前の日本の「平和志向」「穏やかさ」を否定することになりますから。異論はあるにしても、それが日本の「伝統」だったと思うからです。

 私から言わせれば、男系男子固執論者は、

西欧コンプレックスの裏返しになります。

 相対的ではあるにしても、「平和」を愛してきた日本人としての自信をもっと持てばよいのになあ、と思います。

 そして現天皇夫妻ほど、平和を願っていることに国民は思いを馳せてくれればいいのにと考えます。

 もちろん、私は北朝鮮での拉致問題には、家族に対してとても他人事とは思えず、煮えくりかえる気持ちでいます。

 でも、暴力に対して暴力は最小限度は必要になりますが、理性を超えると悪循環になりかなねません。暴力の悪連鎖は、「正統」と「正当」の解釈をめぐって、つまるところ際限がなくなります。

 だから、私は一定の期間、国民と国際社会から認められている方々を「正統」と認めるのが筋だと考えています。

 ここに、正統性が疑わしい「異種混淆」の人が入ってきたら、どういうことになるのでしょうか。末恐ろしい社会になるでしょう。

 ここらの教訓を踏まえているのが、現皇族であり、有識者会議の方々と言えるのかも知れませんね。

 
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

皇室の話」カテゴリの最新記事