Voice平成17年8月号にて、高森明勅氏の「皇室典範の改正を切望する」とう記事が掲載されている。
男系男子論の問題点の指摘の箇所については、筆者の6月14日付け「男系男子への固執について考える。」と同様の記述も見られる。
今後、名指しされた男系男子論者からの反論があるとすれば、なかなか楽しみなことである。
ただ、この高森氏の論文にて、少々残念なのは、末尾に「伝統的観念に照らして、女系も皇統に含まれ得ることを、本稿では述べてきた」とあるのだが、肝心の「伝統的観念」の内容について、いまいち迫力に欠けるように思われることである。
高森氏のユニークな主張としては、「「養老令」の規定(「継嗣令」皇兄弟子条)」を根拠として双系主義であったというものがあるが、この規定については、現在問題になっているような、女性天皇が民間の男性との間でもうけられた子の皇位継承権についてまでカバーするものであったとは思われないし、そもそも、規定の置かれている箇所からしても、そのような重要なことを規定したものとは思われない。
結局のところ、「伝統的観念」については、皇室を支持してきた日本人の皇室観ということから論じる必要があるように思われるのだが、なにぶん形のないものであるだけに、学問的に論じようとする立場としては、触れることはできないものなのであろうか。
高森氏の双系主義という主張については、皇位継承を安定的にしたい、また、皇室というご存在の意義をY染色体といったものに矮小化させたくないという熱意から発せられたものと思われるが、筆者としては、そのような思いをストレートに示してもらう方が、ありがたいように感じられる。
男系男子論の問題点の指摘の箇所については、筆者の6月14日付け「男系男子への固執について考える。」と同様の記述も見られる。
今後、名指しされた男系男子論者からの反論があるとすれば、なかなか楽しみなことである。
ただ、この高森氏の論文にて、少々残念なのは、末尾に「伝統的観念に照らして、女系も皇統に含まれ得ることを、本稿では述べてきた」とあるのだが、肝心の「伝統的観念」の内容について、いまいち迫力に欠けるように思われることである。
高森氏のユニークな主張としては、「「養老令」の規定(「継嗣令」皇兄弟子条)」を根拠として双系主義であったというものがあるが、この規定については、現在問題になっているような、女性天皇が民間の男性との間でもうけられた子の皇位継承権についてまでカバーするものであったとは思われないし、そもそも、規定の置かれている箇所からしても、そのような重要なことを規定したものとは思われない。
結局のところ、「伝統的観念」については、皇室を支持してきた日本人の皇室観ということから論じる必要があるように思われるのだが、なにぶん形のないものであるだけに、学問的に論じようとする立場としては、触れることはできないものなのであろうか。
高森氏の双系主義という主張については、皇位継承を安定的にしたい、また、皇室というご存在の意義をY染色体といったものに矮小化させたくないという熱意から発せられたものと思われるが、筆者としては、そのような思いをストレートに示してもらう方が、ありがたいように感じられる。
現在、皇位継承問題は女系是か非かという設問をめぐって対立しているように見えますが、その深層に横たわっている大きなテーマの一つが、「伝統」とは何かをめぐる確執だと思われます。
男系男子主義に立つ方々が主張するのは、実は明治に定められた皇室像が「日本の伝統」であるという考え方です。しかし、「万世一系説」も廃仏毀釈に立つ皇室祭祀も、明治の時に創設された、いわば疑似的な「伝統」でしかありません。
あえて日本の「独自性」といったことをことさら重視したいという願望があるのは、古代以来、日本が諸外国の制度、文化、宗教を移入し、その一つひとつを取り出していくと、何れも日本固有のものであるということを主張しにくいコンプレックスの裏返しと言えるのだと思います。
古代の皇室祭祀ですら、道教の影響を濃厚に受けていますし、男系男子説が固まったのも中国の律令制が導入されて以降ですから。
さすがに、八木秀次、大原康男、中川八洋といった各氏らの硬直した「疑似伝統主義者」とは違って、高森さんは、最新の史学理解を踏まえているうえ、皇統の断絶を真摯に憂いていますから、現実的な皇位継承の解決策を唱えていますが、どうも「伝統」の理解になると、歯切れが悪くなるのも、折衷的な「伝統」観に立っているからのように思われます。
皇室制度は、純粋無垢といった硬直的ではなく、むしろ優れて柔軟なシステムであり、それは日本文化の特質の一つだと考えれば、別な「伝統」観が浮かび上がってくるでしょう。なにも男系男子とか、万世一系説を唱え、ことさら日本の「優越性」「独自性」にこだわる必要がありますまい。
時代の中で皇室は「変形」しながら、なおも続いてきたということ自身にむしろ日本文化の最大の特徴を見つめ直していくことが大切であるように思われます。そこに、日本の文化の「伝統」を見いだすといった逆転の発想が必要なのではないでしょうか。歴史を謙虚に見つめれば、実に天皇制度というシステムは、実にフレキシブルであったことに気付かされますから。
先に述べたような「疑似伝統主義者」の方々が、養子採用による「政略結婚」を勧めたり、女性皇族を「産み腹」としか考えず、非人道的な言説をばらまいているのは、まさに現代の逆説というべきでしょうね。
自説を固執するために、これ以上、皇族の方々を苦しめるのは止めになさるがよろしいように感じます。なんだか、私は次第に現代版「尊皇派」みたいになってしまいましたけれども。
それにしても、同じ雑誌で皇室祭祀についてつべこべ述べている原武史氏は、実にうさんくさい学者ですね。前に西田さんが批判されていましたが、この人は、皇室制度の将来について何を主張したいのか、毎度のことながら、全く訳が分かりません。
基調は天皇制の廃止論者なのでしょうが、皇室祭祀を盾にとって、皇室典範改正への動きを恫喝するなど、とてもフェアとは思えませんね。
コメントの中で,「皇室制度は、純粋無垢といった硬直的ではなく、むしろ優れて柔軟なシステムであり、それは日本文化の特質の一つだと考えれば、別な「伝統」観が浮かび上がってくるでしょう。」とありましたが,この部分は,実に本質的なところだと思いました。
日本の文化についても,古代より振り返りますと,外来の様々なものを取り入れつつ,それに呑み込まれずに,独自に日本的なものとして消化し,発展してきたという特徴があるように思います。
「伝統」というものを,形式的に硬直したものという固定観念で考えてしまうと,このような日本の伝統のユニークな姿というものを,見落としてしまうことになりますし,やはり,間違いなのだと思います。
ただ,このように柔軟に対応できたのも,何か核のようなものがあったからこそではないかという気もいたしますし,その核というものが何かということになりますと,結局,日本的ないしは日本人らしさということなるのでしょうか。
このように考えますと,何だかニワトリとタマゴの関係のような感じになってきますし,また,日本的,日本人らしさとは何かということを,客観的に論じようとしますと,ものすごく大変な話になるのでしょうけれども,それでも,そのようなとらえどころのない「何か」があるのだと感じます。
ただ,ここで視点を変えてみますと,日本的,日本人らしさというものにつき,必ずしも外部の事象に手掛かりを求める必要性はなくて,日本人である自分自身の心の中を探ることによっても,到達できるのかもしれません。むしろ,近道であるのかもしれません。
何でこんなことを言うのかと申しますと,先ほど,以下のような記事を見つけたのです。
<天皇・皇后陛下のお振る舞い>
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/75faa26cd479c55e34e6e2c86afe789c
この記事を書かれた方は,皇室についての専門的な知識はないそうなのですが,皇室のお姿を見つめるうちに,日本人ということを意識されたそうです。
素直な気持ちで皇室のお姿を見て,このように感じる人がいるということは,日本的,日本人らしさというものが,現代の日本人にも,やっぱり伝わっているんだなと思われ,久しぶりにうれしい気持ちになりました。
第一に、オールラウンドに皇室制度を古代から現代に至るまで精通されている方にはかつては法制史学者の石井良助さんと言う方がいましたが、学問が細分化される中で、純粋な意味で、「本当の専門家」といわれる学者はどこを探してもいません。
むろん、「専門家」と自称する方はいますが、左右ともイデオロギーに金縛りになり、自説に固執するだけで相手の言い分には耳を傾ける謙虚さに欠けている傾向がみられます。ですから、フェアに議論する場には向いてはいません。
それに比べれば、有識者会議のメンバーには、教条主義者は入ってはいません。知性とバランス感覚では日本でも有数な方々ばかりですから、様々な意見に耳を傾けていけば、さほど突飛な結論は出ることはないでしょう。歴史の重みとと現憲法遵守を踏まえて、フェアな議論をしていくことこそ大切ですから、イデオロギッシュな「自称専門家」を排除したことは賢明と言えると思います。
むしろ、細部にこだわる専門主義が学界や日本の社会を歪めてきました。大切なのは大局を見通せる視野でしょう。
朝日新聞の某皇室担当の編集委員も高森さんと同じ意見をかつて紙面で披瀝してきましたが、我こそは皇室問題に対する「専門家」であり、自説の主張こそが正しいという傲りの表われと思えます。
ちなみに、ニュートラルな意味での「本当の専門家」がいるのなら、名前を挙げるべきでしょう。
高森氏のいう「同会議の今後については、厳重な監視が欠かせないだろう」との意見は保留付きで同意します。保留をつけたのは、「監視」などという言葉ではなく、並行して「国民的な議論を高めていくべきだろう」との意味においてですが。
彼らのうち数人と差し障りがない程度に手紙のやりとりをしてきましたが、それらを通して感じられるのは、この問題に立ち向かうことの困難さの認識、さらには真摯な姿勢と歴史を変えることへの緊張感が徐々に高まっている風に感じられることです。
悲壮な決意を固めている方もおられます。
別に有識者会議を過剰に弁護する気はありませんが、他者の意見に傾聴せず、自説ばかりにこだわるというのは左右を問わず、日本人の知識人やジャーナリストの悪癖です。
「世論至上主義的な軽佻浮薄さがみてとれる」という高森さんの指摘も、一見そう取れる節はなくもありませんが、全体的には少し思いこみが強すぎる気がします。
様々な識者の意見にそれなりに耳を傾けようとする姿勢は、一応素直に評価しても良いのではないのでしょうか。高森さんも招かれ、自説を主張する機会に恵まれたのですから。
それでも、日本社会には「核」つまりコアの部分があるのではないかとのご指摘ですね。
これは、重大かつ、かなり熟慮しなければ、ならないテーマです。スタミナ切れの本日は避け、後日、私なりの考え方を述べたいと思っています。
中野さんのお考えについて、楽しみにしております。
ところで、有識者会議についてですが、確かに専門家がいないという批判があり,また,私も,かつてそのようなことを述べた記憶がありますが,最近は,皇室とは,一部専門家のみがその意義を論じられるような存在ではなくて,日本人みんなのものなのではないかと思うようになりました。
もちろん,専門的な知識も不可欠だと思いますが,重要となるのは,日本人全体というのが無理であるとしても,できるだけ多くの日本人の心にしっくりと来るような,そのような在り方をさぐることが必要であると思いますし,そういった文脈であったとするならば,いろいろと批判もなされておりますが,吉川座長の「国民の平均的な考え」ということも,的外れなものではなかったように思ったりもいたします。
また,有識者会議の方々については,あのような困難な立場に置かれた者として,精一杯真剣に考えて居られるのだろうなと,私なりに想像しています。
ただ,会議自体については,今後,皇位継承の在り方について,国民が決断を下せるほどの価値観の提示ができるかどうかについては,なかなか難しいのではないかというような気もいたしております。
取りあえず,今はただ,見つめるしかないのかなと思います。
ところで,この皇位継承の在り方の問題については,かつての,国体が変わったかどうかという制憲議会での論争の状況に,似ているようにも思います。
当時は,天皇と国民のどちらに主権があるのかというようなことではなく,より高い次元から,日本の国柄というものをとらえるべきであるという説明がなされと思いますが,今回も同じような,高い次元での視点ということが,提示できるかどうか。
今後の議論を見守りたいと思います。
そうですね、「核」というよりとらえどころのない「何か」といった表現の方が適切でしょうね。
最初にエピソードから。
その一 私がもし「尊皇派」になったとすれば、その理由の一つは西田さんの謙譲の美徳にうたれた知れませんね。つまり、説得している側が説得されてしまうという逆説。それは、大声で自我を張り、論理的に相手をやっつけようとする西欧文化とは違う資質を互いに持ち合わせているせいかもしれません。私はDNA説を「お守り言葉」のように振りかざす人は好きにはなれませんが、やはり私も西田さんも、日本文化というDNAをどこかで共有しているせいででしょう。
その二 かつて立花隆さんが書いた『宇宙からの帰還』を読んだ際、米国の宇宙飛行士たちは、宇宙空間で「人智を超えた存在」を感じて引退後、宗教家になった人たちが多いという事実を知り、驚かされました。
それに対して、日本人初の宇宙飛行士になった秋山豊寛さんは、会社を退職して阿武隈山系の麓に移り住み、「農」との共生を目指しました。地球の美しさに気づき、超越的な世界観ではなく、土を通して「地球と一体になろう」との感じ方に、日本人独特の感性があるような気がします。
その三 戦後の皇室が危機に陥った際、日米のクエーカー教徒が連携しながら救済に手をさしのべた有名な話ですが、クエーカー教というのは、プロテスタントの中でも、信仰の強制をしない少数派です。そのクエーカー教徒で明仁天皇の皇太子教育に当たったヴァイニング夫人は、来日早々、日本人は歪められた国家神道とは違う宗教観を持っていることに気づきます。
「たとえば、『神』(ゴッド)とは私たちにとっては天地の創造者であり愛と真理の源なのであるが、私たちが考えるような日本人たちは『神』(ゴッド)を表すべき言葉を持たないのである」「『オガム』という言葉も別な意味を持っている。『拝む』ことは深い敬意を示す儀礼的な行為なのである」といったように。
私は、明仁天皇が彼女がなくなるまで深い信頼を寄せた方だけあって、柔軟かつ鋭い観察眼の持ち主だなあと思い感心しました。見事に日本文化の特徴を見破っているからです。
エピソードを綴るときりがなくなりますので、ここまで。後は私の解釈を述べます。
もともと日本には祖先や自然崇拝、シャーマニズムに基づく神道の原型となる信仰形態があったと思います。梅原猛さんがいわれるように、縄文時代まで遡ることが出来るかも知れません。
その信仰形態は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などとの抽象的かつ包括的な体系とは違い、具体的、実際的、かつ包容力のある名づけようのない概念だつたように思います。
こうした土着の信仰形態が母体となって、外来の世界観、たとえば、道教、儒教、仏教、キリスト教などといった世界観を次々に吸収していったように考えます。つまり、外来の思想の「日本化」させながら、取捨選択して採用していったのではないかといったように。
そして、その「日本化」へ導く母体となったのが「柔らかさ」であったのではないか。その一つの証拠としては、本来の神道は教義らしい体系をまったく持たない外来の宗教とは異なった宗派であったことからもうかがえます。これは西欧的な「核」のある世界観ではなく、「核」を持たないことが特徴で、西田さんが言われるようなとらえどころのない「何か」と名づけるしかありません。
そうした「何か」を母体にしながら、外来文化との切磋琢磨から「わび」「さび」、王朝の「雅」といった日本独特の文化の華が次々に開いていったように思われます。
日本の皇室も、そうした「柔らかさ」を代表するの一つのような気がします。古墳時代には有力豪族とともに巨大古墳を造りますが、それはほんの短期間の例外でしかありません。エジプト文明を始めとて海外の王朝は、巨大建築物を造って権力と権威を示してきましたが、日本の皇室は過度な自己顕示欲はみられませんでした。権力とも無縁な時期がほとんどでした。
ただ私は、余り日本の「特殊性」を強調したくはありません。戦前の「万邦無比の国体」思想は、あまり特殊性に重点を置きすぎたからですし、皇国史観は西欧コンプレックスの裏返しの居直りのように感じられますので。
まあ特殊と一般の適度なブレンドがほどよいといえるのでしょう。日本の社会は、戦前の一時期を除けば、ほどよいブレンド力を持っていたように私には考えられますけれども。
なんだかねとりとめない話で時間切れとなってしまいました。失礼。
「国体」については、私は司馬遼太郎が指摘する「国のかたち」といった言い方の方が誤解を受けないですむように思いますが、それは憲法問題ともからんできますので、高森さんが言われるように今回は「皇位の安定的な継承」に絞りこむのが現実的な判断といえましょう。へたわすると、越権行為になりかねません。また、過度の期待、つまりない物ねだりするのは賢明だとは思えません。
「国のかたち」のありようについては日常的に考えていく必要があるとは思いますが、本格的に議論するのは改憲の時期になると私は考えています。
書きっぱなしで、誤字脱字ごめんなさい。
前の文章を読み直しましたら、やはり誤字脱字だらけでした。すみません。
やはり、有識者会議には過度の期待はすべきではないし、させるべきではないと言うのが私が目下、主張したいところです。
もちろん、「象徴天皇制」をどう考えるかは、暗黙裏のテーマではあります。彼らの中でもとても真剣に悩んでおられる方もいますので、僭越ながら、それは有識者会議で決める事柄ではないのではないかとの趣旨の手紙を差し上げました。
「象徴天皇制」の再定義まで踏み込むと、かえって国民の反発を招きかねません。ですから、とりあえずは現憲法で規定する「国民主権」と「世襲」との両立をどう図るかにテーマを絞るべきだと申し上げました。
つまるところは、現憲法の空洞化を避けるためにも、当面は国民の支持を得られる「皇位の安定的な継承」に焦点を当てるしかないのだと思います。
実は「国民主権」というと、真性の保守派の方々が言われるように、生者の傲慢だとは思いますが、どこまでの死者に想像力をのばせきるのかはとても難しいので、やはり生者に代弁させるしか手だてはないように思われます。
世論は当てにはならないものにはせよ、天皇制支持者が終戦直後から今日に至るまで八割を超し、最近の世論調査では女性天皇容認論も八割は超えている。ここからは消極的にみても、国民は男系男子の天皇こそが「正統」だという理解から、国民の意識は離れていると読みとれることができるのではないでしょうか。
もちろん、女性天皇と女系化についてほとんど理解しない上での調査だと思われますが、私は、主として明仁天皇夫妻の血のにじむような努力の結果、民主主義と競争社会の中において、これだけの安定性を保ってきた皇室には敬意を抱きますし、もはや男系男子による「万世一系説」などにはこだわる必要がなくなっていると解釈しています。
美智子皇后の首に輪をしながら、公務に励む姿をみると、痛々しくなりますよね。私なら平気で会社を休んでしまうところですが。
象徴天皇夫妻という存在は、ただ坐っているだけで統合的な機能を果たせるわけではありません。公的活動を通して、積極的にその機能を果たさなければ国民の理解をえられない、えらくお辛い立場なのですが、その「公務」については、現憲法上、何の規定もない。矛盾だらけですね。
譲位も許されぬ終身天皇制も含めて、憲法改正時には、第九条のみならず、第一章についても抜本的な議論が必要であるように思われるのですが、政治家も国民も目がそちらには届かない。
弱い側の人間はその天皇夫妻に支えられている。私から言わせれば、なんと人権意識のない国かと嘆きたくなります。なんだか、前に書いた文章と矛盾するような気もしますが。
で、くどくど言った結果、何を申し上げたかったというと、西田さんのホームページの図柄を変え、前のようなさわやか風に直ちに戻して下さい。
なんだかおどろおどろしくて、余りこのページを見たくなくなりますから。私への返事はいりませんからね。
ああ、次の会合まで間に合った。
同会議について,「価値観の提示ができるかどうかについては,なかなか難しいのではないか」ということを述べましたが,これは,能力が足らないとか,そういう意味で書いたのではないのです。
しかし,改めて読み返してみたところ,そのように見えてしまうような気がいたしましたので,この際,説明したいと思います。
能力的には,最高レベルの方々であると思いますし,もともと私がどうこう言えるような話ではありません。
ただ,今回の皇位継承の在り方の問題については,幾つかの選択肢のうちのどれが適切であるかという選択の話でありますし,最終的には,どのように考えるのかという主観的な価値観の提示が必要になると思われます。
そして,この主観的な価値観については,それを対外的に提示するとなると,おそらくものすごい勇気が必要になるのではないかと思うのです。
私のような者が,このブログにて書き連ねているような行為については,まったく何の勇気も必要ではありません。しかし,社会的な地位のある方々が,公的な場において,しかも,テーマが皇位継承の在り方ということであれば,これは大変な勇気を必要とする話であるに違いありません。自分の考えによって左右してしまってよいのだろうかという迷いは,いつまでたってもつきまとうように思われます。
おそらくは,まずは,過去の歴史,今までなされてきた議論の客観的な分析ということに努められ,そのような客観的な手法によって,結論を探られることになるのではないでしょうか。
そして,そのような客観的な手法によって結論が出せるのであれば,それはそれで,素晴らしいことだと思いますし,また,そのような客観的な手法を十分に尽くすことが必要なことだと思います。
しかし,国民を納得させることができるような結論を出すためには,最後の最後で,どうしても,主観的なものを提示せざるを得なくなるのではないかと,私には,そのように思われるのです。
これはなかなか酷な話であると思います。
このような役割は,本来政治家の役割であり,学者の役割ではないという言い方も可能ではありましょう。
しかし,今の日本の現状では,政治家は,そのような役割を果たすことができるような存在とはみなされていないように思われます。皇位継承の在り方を語る存在としては,あまりに低俗なイメージが定着してしまっているからです。
今の日本において,皇位継承の在り方を語るに相応しい存在としては,お気の毒ですが,やはり,同会議における有識者のような方々ということになるのではないかと思います。
このように申しまして,あまりプレッシャーをかけるようなことは本意ではないのですが,もともとプレッシャーを感じるなというのも無理でしょうし,私としては,このような気持ちで期待しております。
ただ,同会議を見守る姿勢として,全責任をおっ被せて批判だけをしようとしたり,あら探しばかりをしようと待ち構えるのは,実に恥ずべきことではないかということを,訴えたいですね。
同会議は,あくまで諮問機関であり,有識者の方々に決定権限が与えられているわけではなく,そのような権限と責任については,最終的には国民にあるのだということを,忘れてはならないと思います。
つまり、最後の決定権は国民及びその代表者である国会が握っているということですね。
とはいえ、現在の国会議員のレベル、あるいは国民の真摯な視線がどこまで、皇族のあり方までにまで行き届いているかといえば、お寒い限りではありますから、有識者会議での結論はかなりの重みを占めているように思われます。
四年以上前の女性天皇是非の議論の際には、「個人的には、女性天皇でいいんじゃないか」といともあっさり答えていた小泉首相が、有識者会議を結成させ、それなりの手続きを踏むようになったことについては、一定に評価できると言えるのではないでしょうか。