ノンノの庭のお花達

我が家の小さな庭に咲く季節の花とランチやお出掛け、茶トラの猫ちゃん「のんたん」との日々の暮らし等を綴ってます。

告別式に参列して

2008年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
主人の叔父様が亡くなられて葬儀に参列して来ました。
とってもひょうきんな方で何か集まり事が有ると必ずその方の周りでは笑い声が絶えないとっても明るくて面白い叔父様でした。

御会葬御礼の中にお寺さんからの言葉が記されていて印象に残りましたので紹介します。

私達は清め塩を使いません
現在、さまざまな佛教宗派の葬儀に共通した習俗の一つとして「塩」を使うということがあります。
葬儀における「塩」は「キヨメ」と称して使われます。
「納棺」「火葬場」から帰って来た時に「塩」によってキヨメてから家に入るという慣習が広く行われています。
日本各地で広く行われているということは日本人の慣習であるといえるでしょう。
では何故、何をキヨメなければならないのでしょうか、それは「死」あるいは「死者」に関わることにより「ケガレ」がうつったからだと考えられます。
この習慣から見ることは私達が「死」を、あるいは「死者」を「ケガレ」として見ていることは悲しい現実です。
葬儀の時に「塩」を使うという行為は、一見何でもない行為に見えます。単なる世間の習慣として行っているだけで私達の生活には何の影響も無いように見えます。
しかし「死」を「ケガレ」とする意識は「塩で清める」と言う行為によってますます強くなっていきます。
はたしてケガレた存在としての「いのち」などという物があるのでしょうか、そもそも死はケガレなのでしょうか、
生前、父よ母よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に「ケガレたもの」としキヨメるという行為ではないのでしょうか。
佛教では〔生死:しょうじ〕という言葉を使います。「生」と「死」とを別のものと見ないのです。
当然のこととして「死」をケガレとしてみることはありません。
私達は必ず死を迎える時がやって来ます。死を迎えた私達の存在は、決してケガレた存在でないことをお釈迦様は教えて下さいました。
そして宗祖親鸞聖人は、命ある者はすべて、等しく阿弥陀如来に救われてゆく存在であることをお示しくださいました。
阿弥陀仏に救われる存在とは、阿弥陀仏の願いにより佛となってゆくべき存在です。私達が仰ぐべき佛(ほとけ)となってゆく「いのち」です。
葬儀に参列した時は「塩で清める」という行為は、亡き人を侮辱するばかりでなく、私達の生き方もあいまいにさせる迷信であり、一切不要であることが知らされます。                                        浄土真宗本願寺派
全文ご紹介しました。
今まで昔からの習慣で当たり前の事と疑問に思った事もありませんでしたし、ケガレ等とも思った事も有りませんでした。
皆様はどうお感じになられたでしょうか

此れからは主人の親類の集まりがあってももうあのひょうきんで楽しい叔父様に会えないと思うと寂しくなります。

Img_9558

Img_9555カサブランカとベゴニアを

コメント (6)
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