もうね、悪文だろうが駄文だろうがいいことにしました。人間あきらめが肝心でございます。
何をいまさらでございますね。
はっはっは。
というわけで
11/8の続きでございます。
前回の記事の最後「この作品は悪と暴力がはびこる「現実」の世界に生きる無力なオフェリアが
ファンタジーを経ることによって、そうした悪や暴力に加担しない心的な強さを育んだお話ではなかろうか」と申しましたが
これについてもうしばし語らせていただきたく。
*以下、若干のネタバレを含みます。*
おとぎ話----とりわけ再話され、道徳的に飼いならされたおとぎ話----の中に登場する悪は
往々にして、善である主人公からは切り離された悪、悪として独立した悪でございますね。
そうした悪を担っているのは、鬼や悪魔、魔女、継母、妖精、兄や姉、年老いた王などなどで
彼らはいわば根っからの悪、純粋な悪、象徴的な悪でございます。
他方現実において私達が直面する悪は、もっと複雑でやっかいなものでございますね。
ファンタジーの世界と現実の世界が錯綜する『パンズ・ラビリンス』において
観客は主人公オフェリアと共に、おとぎ話的で象徴的な悪と、現実の具体的でやっかいな悪の間を行き来します。
つまりほぼ全編にわたって悪と暴力、そして心身の傷みを目の当たりにせねばならず、見ていてかなりしんどさもございます。
しかし、ファンタジーを単なる夢の世界、「現実からの避難所」として設定するのではなく
ファンタジーにおける象徴的な悪と現実の具体的な悪とを共に描いた所にこそ、
この映画の肝があると思うのでございますよ。
ファンタジーの世界における悪の体現者は、巨大ひきがえるや、くだんの泥田坊といった
いかにもワルモノらしい姿のモンスターたちであり
現実における悪の体現者は、オフェリアの継父であるヴィダル大尉でございます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/92/acf9db972348f2d8763c3790ca6a4f91.png)
まあこの格好もいかにもワルモノらしいんでございますが...。
泥田坊の体現する悪は、何度も申しますが、悪として独立した象徴的な悪でございます。
それは、彼らの領域に踏み込む等の禁忌を犯した時にはじめて発動する悪であり、
「3枚のおふだ」の山姥や「ジャックと豆の木」の巨人や「ヘンゼルとグレーテル」の魔女のように
やっつけるか、あるいはその手から逃げおおせるかすれば、それで一件落着する悪でございまして
この点、いかにもおとぎ話的な悪でございます。
他方、ヴィダル大尉が体現する悪は非常に現実的なものでございます。
それは、こちらが何も禁忌を犯していなくとも不条理に襲いかかって来るという点でも、
単純な対処法や解決法があるわけではないという点でも、また、私達自身が時に加害者にもなりうるという点でも
非常にリアルで、やっかいな悪でございます。
男性原理に凝り固まった、ゴリゴリのファシストであるヴィダル。
傲慢で、嗜虐的で、「弱者や」「敵」に対して暴力を振るうことを当然の権利と思っている人物でございます。
彼の命令に従う部下たち---それがどんなに非人間的な命令であろうと、唯々諾々と従う部下たち---もまた、
消極的な悪を体現しております。彼らの悪は消極的ではあるものの
ヴィダルのような積極的な悪を下支えしている悪でございます。
また見かけ上は消極的なだけに、私達自身が簡単に陥りうる悪でございます。
別に「私達はみなファシストだ」てなことを言いたいわけではございません。
ただ、例えば「ファシズム」を別の、もっと耳心地のいい言葉に置き換えて
正義を行っているつもりで悪を行うことは私達にはあまりにも簡単であり
そのような現実のただ中にいる時、自らが行っている/行おうとしている悪に気付くことは非常に難しいと思うのですよ。
啓蒙と民主主義運動のヒューマニズム的目的はそれ自身まったくの反対物に転化するということも可能であった。
なぜなら、啓蒙的な意図と民主主義のためでさえ、私たちは人間を---他の目的を追求するような人間を---殺すことができるからである。
世界的に広く承認された価値や規範体系は存在しないので、私たちの善への意志はつねに分裂したままであり
”私たち”はあらゆる”他者”に自分自身の持つ善の観念を押しつけようとし、
こうした”善の強制”によってむしろまたもや悪のみに頼る、といった汚点にとりつかれる。
『人はなぜ悪にひかれるのか』 フランツ・M・ヴケティッツ 新思索社 p.264-265
ヴィダルとその部下たちの体現する悪は
泥田坊らファンタジーの住人が体現するような「善である主人公/私達」から切り離された悪ではなく
私達を取り巻き、私達の内にあり、私達が常に被害者にも加害者にもなりうる悪でございます。
劇中、レジスタンスたちを密かに支援している医師が「大尉を殺しても、また別の奴が来るだけだ」と言う場面がございます。
これは直截的には、司令官一人をやっつけたところで弾圧や独裁体制がなくなるわけではない、という意味でございましょうが
彼らの悪は決して彼らのみの悪ではない、ということも含んでおりましょう。
レジスタンスたちが大尉ら政府軍と戦い、彼らの鼻を明かし、勝利しても
そこにあるのはハリウッド的な爽快さではなく、おとぎ話し的なハッピーエンドでもございません。
私達はファンタジーの中で「泥田坊の悪」から逃れることはできても、
生きている以上、「ヴィダル大尉の悪」から逃れることはできないとも申せましょう。
なんとなれば、それは外にある悪ではなく、私達の内にある悪だからでございます。
オフェリアは現実においてよりも、むしろパンから課された試練という
ファンタジーの中において、悪と対峙してきたのでございますが
彼女が挑んだ最後の試練こそは、現実の悪の最もやっかいな面との対峙を迫られるものでございました。
即ちオフェリアが受けた最後の試練は、現実的なやっかいな悪、私達の内にある悪を発動させるという誘惑に
抵抗できるか、否か?ということであったと、ワタクシは考えております。
彼女はそれまでの2つの試練の中で、利己性と暴力性を発動させることの醜さやその代償を
(おとぎ話的な、象徴的な、明快なかたちで)目の当たりにしてきました。
だからこそ、自分も悪の一端に関わりそうになった時に「否」を言うことができたのでございましょう。
本作におけるファンタジーを単に「ひどい現実からの、心の逃避先」として見るならば
本作はあまりにも救いのない、悲惨な話としか言いようがございません。
それは制作者の意図した所ではございませんでしょうし
それだけの話であったならば、ワタクシの心にこれほど深い印象を残すこともなかったろうと思う次第でございます。
何をいまさらでございますね。
はっはっは。
というわけで
11/8の続きでございます。
前回の記事の最後「この作品は悪と暴力がはびこる「現実」の世界に生きる無力なオフェリアが
ファンタジーを経ることによって、そうした悪や暴力に加担しない心的な強さを育んだお話ではなかろうか」と申しましたが
これについてもうしばし語らせていただきたく。
*以下、若干のネタバレを含みます。*
おとぎ話----とりわけ再話され、道徳的に飼いならされたおとぎ話----の中に登場する悪は
往々にして、善である主人公からは切り離された悪、悪として独立した悪でございますね。
そうした悪を担っているのは、鬼や悪魔、魔女、継母、妖精、兄や姉、年老いた王などなどで
彼らはいわば根っからの悪、純粋な悪、象徴的な悪でございます。
他方現実において私達が直面する悪は、もっと複雑でやっかいなものでございますね。
ファンタジーの世界と現実の世界が錯綜する『パンズ・ラビリンス』において
観客は主人公オフェリアと共に、おとぎ話的で象徴的な悪と、現実の具体的でやっかいな悪の間を行き来します。
つまりほぼ全編にわたって悪と暴力、そして心身の傷みを目の当たりにせねばならず、見ていてかなりしんどさもございます。
しかし、ファンタジーを単なる夢の世界、「現実からの避難所」として設定するのではなく
ファンタジーにおける象徴的な悪と現実の具体的な悪とを共に描いた所にこそ、
この映画の肝があると思うのでございますよ。
ファンタジーの世界における悪の体現者は、巨大ひきがえるや、くだんの泥田坊といった
いかにもワルモノらしい姿のモンスターたちであり
現実における悪の体現者は、オフェリアの継父であるヴィダル大尉でございます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/92/acf9db972348f2d8763c3790ca6a4f91.png)
まあこの格好もいかにもワルモノらしいんでございますが...。
泥田坊の体現する悪は、何度も申しますが、悪として独立した象徴的な悪でございます。
それは、彼らの領域に踏み込む等の禁忌を犯した時にはじめて発動する悪であり、
「3枚のおふだ」の山姥や「ジャックと豆の木」の巨人や「ヘンゼルとグレーテル」の魔女のように
やっつけるか、あるいはその手から逃げおおせるかすれば、それで一件落着する悪でございまして
この点、いかにもおとぎ話的な悪でございます。
他方、ヴィダル大尉が体現する悪は非常に現実的なものでございます。
それは、こちらが何も禁忌を犯していなくとも不条理に襲いかかって来るという点でも、
単純な対処法や解決法があるわけではないという点でも、また、私達自身が時に加害者にもなりうるという点でも
非常にリアルで、やっかいな悪でございます。
男性原理に凝り固まった、ゴリゴリのファシストであるヴィダル。
傲慢で、嗜虐的で、「弱者や」「敵」に対して暴力を振るうことを当然の権利と思っている人物でございます。
彼の命令に従う部下たち---それがどんなに非人間的な命令であろうと、唯々諾々と従う部下たち---もまた、
消極的な悪を体現しております。彼らの悪は消極的ではあるものの
ヴィダルのような積極的な悪を下支えしている悪でございます。
また見かけ上は消極的なだけに、私達自身が簡単に陥りうる悪でございます。
別に「私達はみなファシストだ」てなことを言いたいわけではございません。
ただ、例えば「ファシズム」を別の、もっと耳心地のいい言葉に置き換えて
正義を行っているつもりで悪を行うことは私達にはあまりにも簡単であり
そのような現実のただ中にいる時、自らが行っている/行おうとしている悪に気付くことは非常に難しいと思うのですよ。
啓蒙と民主主義運動のヒューマニズム的目的はそれ自身まったくの反対物に転化するということも可能であった。
なぜなら、啓蒙的な意図と民主主義のためでさえ、私たちは人間を---他の目的を追求するような人間を---殺すことができるからである。
世界的に広く承認された価値や規範体系は存在しないので、私たちの善への意志はつねに分裂したままであり
”私たち”はあらゆる”他者”に自分自身の持つ善の観念を押しつけようとし、
こうした”善の強制”によってむしろまたもや悪のみに頼る、といった汚点にとりつかれる。
『人はなぜ悪にひかれるのか』 フランツ・M・ヴケティッツ 新思索社 p.264-265
ヴィダルとその部下たちの体現する悪は
泥田坊らファンタジーの住人が体現するような「善である主人公/私達」から切り離された悪ではなく
私達を取り巻き、私達の内にあり、私達が常に被害者にも加害者にもなりうる悪でございます。
劇中、レジスタンスたちを密かに支援している医師が「大尉を殺しても、また別の奴が来るだけだ」と言う場面がございます。
これは直截的には、司令官一人をやっつけたところで弾圧や独裁体制がなくなるわけではない、という意味でございましょうが
彼らの悪は決して彼らのみの悪ではない、ということも含んでおりましょう。
レジスタンスたちが大尉ら政府軍と戦い、彼らの鼻を明かし、勝利しても
そこにあるのはハリウッド的な爽快さではなく、おとぎ話し的なハッピーエンドでもございません。
私達はファンタジーの中で「泥田坊の悪」から逃れることはできても、
生きている以上、「ヴィダル大尉の悪」から逃れることはできないとも申せましょう。
なんとなれば、それは外にある悪ではなく、私達の内にある悪だからでございます。
オフェリアは現実においてよりも、むしろパンから課された試練という
ファンタジーの中において、悪と対峙してきたのでございますが
彼女が挑んだ最後の試練こそは、現実の悪の最もやっかいな面との対峙を迫られるものでございました。
即ちオフェリアが受けた最後の試練は、現実的なやっかいな悪、私達の内にある悪を発動させるという誘惑に
抵抗できるか、否か?ということであったと、ワタクシは考えております。
彼女はそれまでの2つの試練の中で、利己性と暴力性を発動させることの醜さやその代償を
(おとぎ話的な、象徴的な、明快なかたちで)目の当たりにしてきました。
だからこそ、自分も悪の一端に関わりそうになった時に「否」を言うことができたのでございましょう。
本作におけるファンタジーを単に「ひどい現実からの、心の逃避先」として見るならば
本作はあまりにも救いのない、悲惨な話としか言いようがございません。
それは制作者の意図した所ではございませんでしょうし
それだけの話であったならば、ワタクシの心にこれほど深い印象を残すこともなかったろうと思う次第でございます。