のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

永遠と いまここ

2007-11-24 | 忌日
本日は
スピノザの誕生日でございます。(忌日カテゴリに入っておりますがどうかお気になさらず汗)
1632年のことでございますから、今年は生誕375周年でございます。
きっと全世界のスピノザ研究者やワタクシのような単なるスピノザファンは今日

別に何もしないことでございましょう。
その方が、このつましくつつましい哲学者にはふさわしいように思われます。

ご存知の通り17世紀のオランダは黄金時代でございまして
世界史に冠たる逸材をたくさん輩出しておりますね。
国際法の父グロティウス、土星の輪を発見したり振り子時計を発明したりのホイヘンス(レンズつながりでスピノザとも交流がありました)、
それにレンブラント、フランス・ハルスピーテル・デ・ホーホヤン・ステーン、などなど。

ここにスピノザ誕生の約ひと月前(1632年10月31日)に生まれ、同じ自由な空気を吸って生き、
スピノザの亡くなる約1年前(1675年12月15日)に没した、つまりスピノザとまさに同時代を生きた超有名人がおります。
即ち、フェルメールでございます。


Copyright:Rijksmuseum Amsterdam

現在、東京の国立新美術館に↑の絵、『牛乳を注ぐ女』が来ておりますね。
それに合わせて、先週のNHK『新日曜美術館』ではフェルメールを取り上げておりました。
その中で『恋するフェルメール』の著者、有吉玉青さんが
「この女性は永遠に牛乳を注いでいるのではないか」とおっしゃった時、
ふと胸をつかれたような心地がいたしました。
フェルメールの絵の中の「永遠」に、スピノザの「永遠」がオーバーラップしたからでございます。


スピノザが「永遠」と言います。
「永遠の相のもとに」と言います。
「永遠にして無限なる実体」と言います。

私はどうしても、「永遠」という言葉でもって「長い時間」とか「終わりのない継続」といったものを
イメージしてしまうのですが-----、つまり、永遠に続く苦しみ、とか永遠の愛、とか
そういった文学的で時間的なものを思ってしまうのですが-----、

スピノザの言う「永遠」は全然そういうものではないのであって
時間の長さとは何の関係もない、「無時間的の永遠」でございます。
即ち「三角形の内角の和が180度であるのは永遠の真理である」という時の「永遠」でございます。
時が1億年前であろうと1億年後であろうと、三角形の内角の和は必ず180度でございます。
所がオランダだろうと日本だろうと冥王星だろうと、そこに三角形が存在すれば、その内角の和は必ず180度でございます。
スピノザの「永遠」はそういう永遠であって、つまりは「必然」と同義でございます。

残念なことに私は疑いようもなく頭が悪いんでございますが
三角形における永遠性(=必然性)までなら、なんとか話はわかります。
しかし、そこから先へ進むのがなんとも難しいんでございます。
そもそも「頭が悪い」と言うこと自体が、架空の完全性を前提としてるということであって、甚だスピノザ的ではないことのように思われますが。

スピノザがあらゆる事物を「永遠の相のもとに」見る、と言うとき-----つまり、あらゆる物質や現象を
「三角形の内角」と「180度」の間にあるのと同じ必然性でもって生起したものとして見る、と言うとき-----、
三角形の話の時にはしっかり捉まえていたはずの「無時間の永遠」が
私の手からカスミのように逃れて行ってしまうのでございます。

さらに「精神は身体とともに完全には破壊されず、その中の永遠なるあるものが残る」などと言われた日には
「無時間の永遠」なる概念は跡形もなく雲散霧消し、言葉の意味すら定かではないものになってしまいます。
私の手の内に残っているのはスピノザの「永遠」とは全く似ても似つかない、あの文学的で時間的な「永遠」だけ、
即ち終わりなき継続、「◯◯ し 続 け る もの」としての「永遠」だけになってしまうんでございます。
「(時間的に)永遠に存在 し 続 け る 精神」なんてものを、スピノザは決して説きゃしないというのに。

ああ、言葉の意味の段階ですでにつまづいている者が
「永遠の相のもとに」ものごとを見ることなどできましょうか?

なおかつ、このスピノザの「永遠」は、ひとたび理解すればその後ずっと使える法則や数式のようなものではなく
常に「今、ここ」という個別的な状況の中に見いだされるべきもののようでございます。

ドストエフスキーの『悪霊』で、従来の神の不在を証明するために自殺するキリーロフが
風に飛ばされた木の葉や壁を這う蜘蛛といった何の変哲もないものものに見いだした「素晴らしさ」は、
きっと無時間の永遠、「今ここ」の永遠、スピノザの永遠に由来するものでございましょう。


「ある数秒間があるのだ、...(中略)...そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ。
...(中略)...それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。
まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といったような心持ちなんだ。
神は、世界を創造したとき、その創造の一日終わるごとに、『しかり、そは正し、そはよし』といった。
それは.....それはけっしてうちょうてんの歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ。
人はもはやゆるすなどということをしない。なぜなら、何もゆるすべきことがないからだ。
愛するという感覚とも違う、-----おお、それはもう愛以上だ!」

ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 米川正夫訳 河出書房新社 p.134

おお、この全き肯定!
もしもこのような目で世界をみることができたなら
きっと世界における自分をザムザ家におけるグレゴールのように感じずとも存在していられることでしょう。


「新日曜美術館』で有吉さんが「この女性は永遠に牛乳を注いでいる」とおっしゃった時の「永遠」もまた
終わることなくジョロジョロと牛乳を注ぎ 続 け る という意味ではなく、
スピノザの永遠、無時間的な「今ここ」の永遠の意でありましょう。

三角形レベルの永遠を理解するのがやっとなのろではございますが
のろにとって幾何学よりもはるかに親しみ深い、絵画というかたちで表現された「今ここ」の永遠は
いつもよりほんの少しだけ捉えやすい格好で
いつもよりほんの少しだけ長いこと、手の内に留まっていたのでございました。