今更ではございますが
世間に「上から目線」がはびこっているような気がして久しいんでございます。
見下したもん勝ちな世の中、とでも申しましょうか。
「2ちゃんねる」は言わずもがな、ブログのコメント欄での攻撃的なやりとりや、「負け犬」「負け組」といった言葉がメディアのそこかしこで見受けられることからもそんなことを感じるんでございます。
先日、通り魔事件の犯人について「自分がうまくいかない理由を社会に転嫁しており、身勝手で甘ったれている甘え型の犯行」と書いた言説をチラと読みましたが、この一文、ワタクシはちと嫌な感じがいたしました。と申しますのも、これらの言葉には「まっとうな人間であるこの私とは違って」という話者の前置きが隠れているように思われたからでございます。即ち、俯瞰した、「引いた視点」というよりも、対象をぐっと見下した「上から目線」が。
犯人に共感しろとは申しませんが、「犯罪は(自分のような良識人とは違って)社会に適応できないダメな奴、けしからん奴が起こすもの」という見地からでは、何をどう分析しようとも、本当に社会をよくする方策には繋がらないだろうと思うのですよ。
「身勝手」や「甘ったれ」というラベルは、当の犯人への憤りや侮蔑をぶつけるにはもってこいの標識ではございますけれども、問題はその人物が------それが「身勝手で甘ったれ」な人物だろうと「真面目でもの静か」な人物であろうと「特に目立たない普通の」人物であろうと------、なぜ自分の人生や見知らぬ他人の人生を破壊する行為にまで突き進んでしまったのか?という点ではございませんか。
世の中の「身勝手な甘ったれ」(これだって程度の問題にすぎませんが)が全て通り魔事件を起こすわけではございません。犯人の人格のみを上から目線で断罪してみたところで、社会にとって有用なことが大してあるとは思われません。
槍玉にあげたような形になってしまいましたが、この話者あるいはこの記事だけが悪いと言いたいわけではございません。
ただ冒頭に申しましたように、今の世の中、見下したが勝ち的な風潮が蔓延しているような気がするのでございます。
で、そのうち自分自身が「上から目線」になっていることにも、他者の「上から目線」に便乗して何かを見下し、切り捨てて、それで何事かを分かったような気分になっていることにも全く気付かなくなってしまうのではないかと思い、ちと恐ろしくなったのでございます。
世間に「上から目線」がはびこっているような気がして久しいんでございます。
見下したもん勝ちな世の中、とでも申しましょうか。
「2ちゃんねる」は言わずもがな、ブログのコメント欄での攻撃的なやりとりや、「負け犬」「負け組」といった言葉がメディアのそこかしこで見受けられることからもそんなことを感じるんでございます。
先日、通り魔事件の犯人について「自分がうまくいかない理由を社会に転嫁しており、身勝手で甘ったれている甘え型の犯行」と書いた言説をチラと読みましたが、この一文、ワタクシはちと嫌な感じがいたしました。と申しますのも、これらの言葉には「まっとうな人間であるこの私とは違って」という話者の前置きが隠れているように思われたからでございます。即ち、俯瞰した、「引いた視点」というよりも、対象をぐっと見下した「上から目線」が。
犯人に共感しろとは申しませんが、「犯罪は(自分のような良識人とは違って)社会に適応できないダメな奴、けしからん奴が起こすもの」という見地からでは、何をどう分析しようとも、本当に社会をよくする方策には繋がらないだろうと思うのですよ。
「身勝手」や「甘ったれ」というラベルは、当の犯人への憤りや侮蔑をぶつけるにはもってこいの標識ではございますけれども、問題はその人物が------それが「身勝手で甘ったれ」な人物だろうと「真面目でもの静か」な人物であろうと「特に目立たない普通の」人物であろうと------、なぜ自分の人生や見知らぬ他人の人生を破壊する行為にまで突き進んでしまったのか?という点ではございませんか。
世の中の「身勝手な甘ったれ」(これだって程度の問題にすぎませんが)が全て通り魔事件を起こすわけではございません。犯人の人格のみを上から目線で断罪してみたところで、社会にとって有用なことが大してあるとは思われません。
槍玉にあげたような形になってしまいましたが、この話者あるいはこの記事だけが悪いと言いたいわけではございません。
ただ冒頭に申しましたように、今の世の中、見下したが勝ち的な風潮が蔓延しているような気がするのでございます。
で、そのうち自分自身が「上から目線」になっていることにも、他者の「上から目線」に便乗して何かを見下し、切り捨てて、それで何事かを分かったような気分になっていることにも全く気付かなくなってしまうのではないかと思い、ちと恐ろしくなったのでございます。