『さて、大山崎~山口晃展~』へ行ってまいりました。
山口晃という字面が山田晃士と似ていてハッとしてしまうのろ。ガレシャン活動再開してくれないかなあ。
それはさておき。
山口氏の作品、のろは本の表紙や雑誌などで間接的にちらほらお見受けしていたものの、実際の作品と対面するのは始めてでございましたので「お噂はかねがね」という心持ちで行ってまいりました。
いやあ、こんな面白いかたでいらっしたとは。
絵画作品はもちろん、折りたたみ式の携行用茶室や電柱の鑑賞指南「華柱道」、壁のしみを作品に見立ててしまうというおそらく大山崎史上初の企画、そして作品に寄せられた作者コメントまで、みなたいそう面白うございました。通常は作家の人となりにはあまり興味を持たないのろではございますが、今回ばかりは予定をおしてでもトークイベントに参加しとけばよかったなァと思った次第。
面白いと申しましても、例えば森村泰昌さんのように押しの強い、ややもすればグロテスクな面白さではございません。ごく淡々とした、ちらと見ただけでは見過ごしてしまうような面白さでございます。
例えば、ポスターに使われている「野点馬圖(のだてうまず)」。
一見すると伝統的な日本画の手法で描かれた、楚々とした趣の作品でございます。
しかしよくよく見ると、馬のボディにはなにやらメカらしきものが仕込まれているではございませんか。しかも何と、そこにはお茶道具一式が収納されているではございませんか。これぞ即ち、いつでもどこでも野点が楽しめる「野点馬」。
作者コメントに曰く
「便利なお馬さんだこと・・・」
そ、そうですね。
一見「正当な・普通な◯◯」に見えるものの中に、その正当性の文脈においてはどう考えたって異常なものになってしまうような事物が折り込まれ、作品として違和感なく存在してしまっている。そういう一種不敵な面白さがございます。
具体的に申しますと、「折畳式携行用茶室」ではプラスチックのスダレや波板といったチープな素材でこさえられた一畳弱の小屋が、確かに茶室として文句のつけようのない体裁を持っており(床の間まであったりして)、掛け軸風の作品「土民圖」では戦国時代の剽悍な農民たちが軽トラックやロケットランチャーのかたわらで憩っております。凛とした空気のただよう明智光秀の食卓「最後の晩餐」には、キッコーマンの醤油差しやワイン、ポテトチップの袋までもがさりげなく置かれているのでございます。
どれもこれも、普通に考えれば何とも無茶な組み合わせ。
こう申しますと奇をてらった作品のような印象をお持ちになるかもしれませんが、氏の作品の面白さは組み合わせの突飛さそのものの中にあるのではございません。
むしろ無茶なはずの組み合わせが全く無茶に見えないほどの説得力と申しましょうか、違和感の無さ、整合性こそが面白いんでございます。その整合性を支えているのは、氏の高い技術と端正な色彩のセンス、そして緻密な構成力-----あるいは妄想力でございます。
本展には、てらいのない、ひたすら技量の確かさに唸らされる作品もございましたし、その逆に技量はうっちゃってひたすら妄想力で押し切った感のある作品もございました。そのどちらも実にのろごのみでございまして、のろは大いに楽しませていただきました。
また、今回の展覧会に先立つ取材の日々を漫画風につづった「すずしろ日記 大山崎版」なるものも展示されておりました。
こちらは間(ま)の取り方がそりゃもう、絶妙でございましてねえ。新館に展示されている「邸内見立 洛中洛外図」ともども、のろはこらえきれずに ふッ と鼻吹き出ししてしまいました。
展覧会で本気で吹き出してしまうことなんざ、4年前のミヒャエル・ゾーヴァ展*以来のことでございました。
まあそんなわけで
端正な色彩と前田青邨を連想させる巧みな線、そしてどこへ連れて行かれるやらわからない妄想力を併せ持った山口晃さんの作品世界に、のろはすっかり魅せられて何かこうわくわくとした心持ちで大山崎を後にしたのでございました。
*ちなみにその時のろをして吹き出さしめた作品とはベックリン作「死の島」のパロディー作品 でございます。
山口晃という字面が山田晃士と似ていてハッとしてしまうのろ。ガレシャン活動再開してくれないかなあ。
それはさておき。
山口氏の作品、のろは本の表紙や雑誌などで間接的にちらほらお見受けしていたものの、実際の作品と対面するのは始めてでございましたので「お噂はかねがね」という心持ちで行ってまいりました。
いやあ、こんな面白いかたでいらっしたとは。
絵画作品はもちろん、折りたたみ式の携行用茶室や電柱の鑑賞指南「華柱道」、壁のしみを作品に見立ててしまうというおそらく大山崎史上初の企画、そして作品に寄せられた作者コメントまで、みなたいそう面白うございました。通常は作家の人となりにはあまり興味を持たないのろではございますが、今回ばかりは予定をおしてでもトークイベントに参加しとけばよかったなァと思った次第。
面白いと申しましても、例えば森村泰昌さんのように押しの強い、ややもすればグロテスクな面白さではございません。ごく淡々とした、ちらと見ただけでは見過ごしてしまうような面白さでございます。
例えば、ポスターに使われている「野点馬圖(のだてうまず)」。
一見すると伝統的な日本画の手法で描かれた、楚々とした趣の作品でございます。
しかしよくよく見ると、馬のボディにはなにやらメカらしきものが仕込まれているではございませんか。しかも何と、そこにはお茶道具一式が収納されているではございませんか。これぞ即ち、いつでもどこでも野点が楽しめる「野点馬」。
作者コメントに曰く
「便利なお馬さんだこと・・・」
そ、そうですね。
一見「正当な・普通な◯◯」に見えるものの中に、その正当性の文脈においてはどう考えたって異常なものになってしまうような事物が折り込まれ、作品として違和感なく存在してしまっている。そういう一種不敵な面白さがございます。
具体的に申しますと、「折畳式携行用茶室」ではプラスチックのスダレや波板といったチープな素材でこさえられた一畳弱の小屋が、確かに茶室として文句のつけようのない体裁を持っており(床の間まであったりして)、掛け軸風の作品「土民圖」では戦国時代の剽悍な農民たちが軽トラックやロケットランチャーのかたわらで憩っております。凛とした空気のただよう明智光秀の食卓「最後の晩餐」には、キッコーマンの醤油差しやワイン、ポテトチップの袋までもがさりげなく置かれているのでございます。
どれもこれも、普通に考えれば何とも無茶な組み合わせ。
こう申しますと奇をてらった作品のような印象をお持ちになるかもしれませんが、氏の作品の面白さは組み合わせの突飛さそのものの中にあるのではございません。
むしろ無茶なはずの組み合わせが全く無茶に見えないほどの説得力と申しましょうか、違和感の無さ、整合性こそが面白いんでございます。その整合性を支えているのは、氏の高い技術と端正な色彩のセンス、そして緻密な構成力-----あるいは妄想力でございます。
本展には、てらいのない、ひたすら技量の確かさに唸らされる作品もございましたし、その逆に技量はうっちゃってひたすら妄想力で押し切った感のある作品もございました。そのどちらも実にのろごのみでございまして、のろは大いに楽しませていただきました。
また、今回の展覧会に先立つ取材の日々を漫画風につづった「すずしろ日記 大山崎版」なるものも展示されておりました。
こちらは間(ま)の取り方がそりゃもう、絶妙でございましてねえ。新館に展示されている「邸内見立 洛中洛外図」ともども、のろはこらえきれずに ふッ と鼻吹き出ししてしまいました。
展覧会で本気で吹き出してしまうことなんざ、4年前のミヒャエル・ゾーヴァ展*以来のことでございました。
まあそんなわけで
端正な色彩と前田青邨を連想させる巧みな線、そしてどこへ連れて行かれるやらわからない妄想力を併せ持った山口晃さんの作品世界に、のろはすっかり魅せられて何かこうわくわくとした心持ちで大山崎を後にしたのでございました。
*ちなみにその時のろをして吹き出さしめた作品とはベックリン作「死の島」のパロディー作品 でございます。