芍薬と思しき花を撮っていたら、お爺さんに話しかけられました。
「しゃくやくですか?」
そうだと思います。こちらの散っているほうが牡丹じゃないでしょうか。
「そのようですね。牡丹の葉先は分かれているといいますから」
たしかにそちらの葉には切れ込みがあり、芍薬のほうにはありません。
なるほど、そういう見分け方があるのですね。
カメラからパソコンに写真を撮りこみながら思いました。
人の目の解像度はたしか100万画素くらい・・・・このカメラは1200万画素。
それだけの差があるというのに、人の目に映る光景は実になめらかです。
網膜から出ている視神経の数が約100万本だというのに、なぜなのでしょう?
どうやら、不連続な部分は脳が勝手に?補っているようなのです。
たとえば、目玉の後ろ、視神経が出て行く部分には網膜がありません。
その部分は外の光景が欠けているはずですが、脳が埋め込んでいるので見えるというわけ。
平面の網膜に映る像がなぜ立体的に見えるのかも不思議です。
昔の人は、脳の中に網膜に映る像を見ている小さな人間がいると考えました。
今では、これもまた脳が記憶で補っているからだろう、と考えられてるようです。
鳥などは人よりはるかに写真のように記憶すると云われています。
人の記憶は仮に写真のようだとしても、かなりのピンボケで曖昧なもの。
ただ、その曖昧さが人の応用力につながっているといいます。
たとえば、芍薬を写真のように記憶したとします。
そしたら、別な時に色も形も違う芍薬を見たら、同一の花には思えない、というわけです。
何度も何度も違う芍薬を見る体験を繰り返して、その共通要素を人は学習する。
同一のものは何一つ無い具象の世界から、共通する要素を見つけ出すことが抽象化。
具象は個別と1対1に張り付いているから応用は利かず、それっきりで終わりの世界です。
ということは、応用力とは言い換えると抽象化の力なのかもしれません。
立てば芍薬、座れば牡丹・・・・美人の話を書くつもりがあらぬ方向に行ってしまいました。