ユニコムかつしかつれづれ日記

NPO法人ユニコムかつしかのパソコン教室活動などのよしなしごとを、そこはかとなくゆるりと書きしるしてまいります

立てば芍薬、のはずが・・・・

2015-05-05 | 日記

芍薬と思しき花を撮っていたら、お爺さんに話しかけられました。

「しゃくやくですか?」

そうだと思います。こちらの散っているほうが牡丹じゃないでしょうか。

 

「そのようですね。牡丹の葉先は分かれているといいますから」

たしかにそちらの葉には切れ込みがあり、芍薬のほうにはありません。

なるほど、そういう見分け方があるのですね。

 

カメラからパソコンに写真を撮りこみながら思いました。

人の目の解像度はたしか100万画素くらい・・・・このカメラは1200万画素。

それだけの差があるというのに、人の目に映る光景は実になめらかです。

 

網膜から出ている視神経の数が約100万本だというのに、なぜなのでしょう?

どうやら、不連続な部分は脳が勝手に?補っているようなのです。

たとえば、目玉の後ろ、視神経が出て行く部分には網膜がありません。

その部分は外の光景が欠けているはずですが、脳が埋め込んでいるので見えるというわけ。

 

平面の網膜に映る像がなぜ立体的に見えるのかも不思議です。

昔の人は、脳の中に網膜に映る像を見ている小さな人間がいると考えました。

今では、これもまた脳が記憶で補っているからだろう、と考えられてるようです。

 

鳥などは人よりはるかに写真のように記憶すると云われています。

人の記憶は仮に写真のようだとしても、かなりのピンボケで曖昧なもの。

ただ、その曖昧さが人の応用力につながっているといいます。

 

たとえば、芍薬を写真のように記憶したとします。

そしたら、別な時に色も形も違う芍薬を見たら、同一の花には思えない、というわけです。

何度も何度も違う芍薬を見る体験を繰り返して、その共通要素を人は学習する。

 

同一のものは何一つ無い具象の世界から、共通する要素を見つけ出すことが抽象化。

具象は個別と1対1に張り付いているから応用は利かず、それっきりで終わりの世界です。

ということは、応用力とは言い換えると抽象化の力なのかもしれません。

 

立てば芍薬、座れば牡丹・・・・美人の話を書くつもりがあらぬ方向に行ってしまいました。

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