近頃、鯉のぼりを滅多に見かけなくなりました。
少子化も続いているようだし、昔ながらの風習も廃れてきているのかもしれません。
そう思いながら買い物に出ようとしたら、玄関受付のところに棹に着いた鯉のぼり。
風が強い日など、飛ばされた洗濯物などが、よく置かれています。
鯉のぼりもその仲間、どこかの家のベランダから落ちたのでしょう。
余計なお世話ですが、少しくらいの風で落ちるようでは、子どもはしっかり育ちませんよ。
さて、わたしもまだ、青二才だった頃の記憶です。
コンピュータに絡めて、「知識」と「知恵」について、酒を飲みながらの議論。
まだまだコンピュータの草創期ですから、そんな話題になったのかもしれません。
「情報化社会」という言葉もまだ生まれていない頃。
といっても、わたしたちの職場の名前には、情報処理という名がつけられていました。
情報を処理する、とはどういうことだ、というのがたぶん議論の発端です。
人は、五感で情報を捉え、それを何らかの行動に結びつけています。
その情報というのは、大雑把にいうと「知識」と「知恵」とに分けられます。
「知識」は、簡単に言ってしまうとルール化、手順化、マニュアル化ができる情報です。
料理に喩えるならば、レシピに相当します。
レシピがあれば、いちおう誰でも料理が作れます。
でも、それが美味しい料理かとなると、それはまったく別問題です。
なぜなら、そこに「知恵」というものが介在してくるからです。
ところが、この「知恵」は体系化も手順化もできません。
できないのだけれど、人間の行動を意味づけるのはこちらのほうなのです。
これまた、料理の喩えでいうなら、「腕前」ということでしょうか。
料理上手な家庭の奥さんやプロの板前さんの「腕前」・・・・ですね。
ノウハウや勘と言ってもいいでしょう。
こんな云い方もできるかもしれません。
「知識」の蓄積はアタマだけですむ。「知恵」は、アタマとカラダを使います。
だから、子どもの教育も、アタマとカラダの教育、どちらも大切なのでしょう。
コンピュータが「知識」を肩代わりできても、「知恵」は肩代わりできない。
それがその時の議論の結末だった気がします。
思い出しながら帰ってきたら、鯉のぼりはなくなっていました。