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【滋賀・近江の先人第281回】「文学の神様」・「小説の神様」・横光 利一(福島県/大津市)

 横光 利一(よこみつ りいち、1898年(明治31年)3月17日 - 1947年(昭和22年)12月30日)は小説家・俳人・評論家である。本名は横光利一(としかず)。

 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉とともに「小説の神様」とも称された。
戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ。

幼少期
 1898年(明治31年)3月17日、福島県北会津郡東山村大字湯本川向の旅館「新瀧」(今の東山温泉)で、鉄道の設計技師であった父・梅次郎(31歳)、母・小菊(こぎく、27歳)の長男として生まれる。
岩越鉄道(現・磐越西線)開通工事のため、東山温泉に来ていた父は、大分県宇佐郡長峰村大字赤尾(現・宇佐市四日市町赤尾)出身で、代々藩の技術を担当した名家の出であった。父は鉄道技師としても優秀で、業者からは「鉄道の神様」とも呼ばれていたという。
 母は三重県阿山郡東柘植村(現・伊賀市柘植町)出身の四女で、松尾芭蕉の家系をひくといわれる。3月17日は菅原道真の命日でもあり、母は天神様の命日に生まれたから運が強い、といって育てられた。4歳上に姉・しずこがいた。
 父の鉄道敷設工事の仕事の関係で、幼少時、千葉県佐倉市、東京赤坂、山梨県、三重県東柘植村、広島県、滋賀県大津市など各地を転々とする。
大津市鹿関町は、少年時代長等小学校(明治37年と明治43-44年に2回転入学)、中央小学校高等科(明治43-44年)に通ったところで、その他に小学校時代母方の叔母が住む滋賀県竜王町岡屋のお寺に預けられ岡屋分教所に通ったこともある。

1904年(明治37年)4月に大津市尋常小学校に入学した。
「尋常小学読本」施行後の最初の学年であり、横光らは日本近代の国語政策のもとで教育を受けた第一世代であった。
1906年(明治39年)6月から父が軍事鉄道敷設工事のため朝鮮へ渡ることとなり、母の故郷である三重県阿山郡東柘植村に戻り、小学校時代の大半を過ごした。友人に宛てた手紙でも「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と記している。
1909年(明治42年)5月、滋賀県大津市に移住し、西尋常小学校に転校。
1911年(明治44年)、大津市大津尋常高等小学校高等科を修了し、13歳で三重県第三中学校(現・三重県立上野高等学校)入学。当初は母と姉と共に上野町万町に移り住んで暮らしていたが、父が兵庫県神崎郡福崎に移ったため、1913年(大正2年)に一人で下宿生活を送る。柔道、水泳、陸上などスポーツ万能の少年であった。

 この頃、近所に住んでいた少女の宮田おかつに淡い恋心を抱き、のちに、下宿時代の初恋の思い出をもとに『雪解』を発表している。
 このころ夏目漱石、志賀直哉を読む。またドストエフスキー作、片上伸翻訳「死人の家(死の家の記録)」から「文学の洗礼」を受けたとのちに語っている。
中学4年のとき、国語教師に文才を認められたのが契機で小説家を志望するようになった。
1916年(大正5年)3月校友会会報に「夜の翅」「第五学年修学旅行記」を掲載し、奇抜で象徴的なものであった。

大学時代
 1916年(大正5年)、父の反対を押し切って早稲田大学高等予科文科に入学(結果的には中退する)。東京府豊多摩郡戸塚村下戸塚の栄進館に住む。
 文学に傾倒し、文芸雑誌に小説を投稿しはじめる。文学をやりはじめてからは「極道息子」「極道坊主」と心配されたが、不良少年ではなかった。経費節約のため友人と三人で雑司ヶ谷に家を借りて住んだ。夏休みのあと東京に帰ってみると、以前の下宿から連れてきた女中が部屋で友人と寝ており、横光は「まるで飲みほしたコップの麦酒の泡が一つ一つ消えてゆくのを見つめているような感じだった」といい、嫉妬は感じなかったのかという質問に「嫉妬は君、恋愛に付随する、必然の副産物だからね。僕はそれ以来、女性も友人も信じなくなった」と中山義秀に語っている。この女中寝取られ事件については小説「悲しみの代価」で書いた。この事件は「生涯における、たった一つの過失」であったと中山は語っている。
12月14日に初恋の宮田おかつが14歳で急逝。

 翌年1917年(大正6年)1月に大学を神経衰弱を理由に休学、父母の住む京都山科で遊ぶ。7月に「神馬」が佳作として『文章世界』に掲載された。雑誌『文章世界』は当時文壇の登竜門とされていた。10月には「犯罪」が当選作として『万朝報』に掲載された。筆名は横光白歩。11月には同じ筆名横光白歩で『文章世界』に関西方言を取り入れた「野人」を応募した。

 1918年(大正7年)4月に英文科第一学年に編入。同級に佐藤一英がおり、下宿も同じで中山義秀も同じ下宿だった。佐藤一英の詩歌研究会に加わり、そこに中山義秀、吉田一穂、小島勗(つとむ)らも集まった。横光左馬の筆名で詩句を発表。先祖の横光右馬丞元維(宇佐の光岡城主・赤尾備前守種綱の家臣)をもじった筆名であった。 
 横光は学校には行かず、下宿にこもって小説を書いて、投稿を繰り返していた。たまに学校の講義に出席してもノートもとらず、瞑想するような態度で聞いているだけであった。村松梢風によれば横光はいつも和服に黒いマントをはおり、「教室へ入って来てもマントを脱がず、たつた一人中央の席へどつかり腰をおろすと、それから獅子がたてがみをふるように一と揺りぶるつと長髪を振り、左右を睥睨しながら、右手を上げて指で頭髪を掻き上げるのであつた。自分が一般のものと異つたものであることを人にも見せようとするし、彼自身も明かにそれを意識していた」。また村松梢風は横光の下宿の生活について次のように語っている。
 中山義秀は『台上の月』で横光が毎日徹夜を続け、自室に閉じこもりほとんど外出せずに過度に喫煙し不健康な生活をしていたとのべ、「欲望の巣である肉体を、先ず殺してかからねば、といった彼一流の精神主義にもとづくのであろうが、同時にまだあまりに健康体だと、彼独自の作品が生まれてこない様子であった。事実そう云って、彼の制作の秘密を、私に洩らしたこともある」と語っている。

菊池寛との出会い
 1919年(大正8年)、『新潮』が「菊池寛氏に対する公開状」を募集し、佐藤一英が応募すると入選し、それが機縁となって佐藤は菊池寛を訪ねるようになった。菊池は小説を書くようにすすめたが、佐藤はあくまで詩を作るとのべ、親友に小説志望がいるといい、1920年、横光を菊池寛に紹介し、以降、生涯師事することとなった。友人小島勗の妹君子に恋をする。
 1920年(大正9年)1月、雑誌『サンエス』に小説「宝」を発表。9月、戸塚から小石川区初音町の初音館に移った。ここで横光が生田長江訳フローベール「サランボー」を手元において小説を書き、またデクエンシイやクヌート・ハムスンを読んでいたと吉田一穂、中山義秀が述べている。この頃は雑誌『サンエス』で親友の佐藤一英とともに外国文学紹介(無署名記事)のアルバイトをしていた。
 またこの頃、佐藤に「俺は余り志賀(直哉)氏にかぶれすぎていた、と書簡で書いている。初音館から兄の小島が留守のときに小島君子の家に通った。
 1921年(大正10年)1月、時事新報に「踊見」を応募し、選外一位となった。政治経済学科へ転入するも長期欠席と学費未納のため除籍となる。6月、藤森淳三、富ノ澤麟太郎、古賀龍視らと同人誌j『街』を創刊。小石川中富坂の菊池寛の家で川端康成と出会い、菊池は二人を本郷の牛肉屋「江知勝」に連れて行き牛鍋をふるまった。しかしストイックな横光はほとんど箸を持たなかった。横光が先に帰ると菊池が川端に「あれはえらい男だから友達になれ」といい、川端は終生の友となった。「御身」を書くがこの時には発表せずにいる。この頃、ペンネームを「横光左馬(さま)」にすれば、「これならいつでも人から敬称されている」と昂然としていた。一時キリスト教徒になり教会にも出入りした。この頃「蠅」と「日輪」を書いていたが、暮らしは貧しく、一日の食事は十銭のラーメン一杯だけであった。一度だけ、中山義秀に少しの借金をした。
 1922年(大正11年)2月に「南北」が『人間』に掲載された。5月、富ノ澤麟太郎、古賀、小島勗、中山義秀らと同人雑誌『塔』を創刊し、「面」(のち「笑はれた子」)を掲載。8月29日に父が仕事先の朝鮮京城で客死(享年55)し、ひとり渡鮮した。「青い石を拾つてから」では京城は黄色く、駅で母と会い父の家にいくとすでに葬式はすんでおり、骨箱をみて横光は「何アんぢや、こんなものか」と笑ったが、夕方になると悲しみに浸った。小島君子との恋愛もうまくいかないこともあり、虚無感にひたり、朝鮮について「ここの民族は、ひよつとすると歴史の頂上で疲れているのであろう。これはたしかにあの空が悪いのだ。笑ひを奪つたあの空が。冷酷で、どこかあまりに人間を馬鹿にし過ぎた空である。どこに風が吹いているかと云うかのような、ああ云う空の下ではとても民族は発展することが出来るものではない。何の親しみもない空だ。澄明で虚無的で応援力が少しもなく、それかと云つて、もしあの空に曇られたならとても仰ぐのも恐ろしくなるに相違ない」(「旅行記」)と書き、やがて「私はもう何事にもだんだん悲しまなくなつて来た。さうして私は私自身に冷たくなればなるほど私は次第に強みを感じて来た」と心境を表現した。
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