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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第7回) 鹿児島から飛ぶ「エアーナウル」南太平洋の旅

 1976年、太平洋のイギリス領だった「ギルバート&エリス諸島」(Gilbert & Ellice Islands)に今回も趣味の目的で出かけた。
 行き先はギルバートの「タラワ島」(現キリバス共和国=Kiribati、首都はタラワ(Tarawa)とエリス諸島のフナフティ島(Funafuti)(現ツバル(Tuvalu):首都はFunafutiであった。

 我々が訪れた数年後の1978年10月1日にエリス諸島を領有する「ツバル」が、1979年7月12日にギルバート諸島を領有する「キリバス」がそれぞれイギリスから独立した。

 「ギルバート&エリス諸島」へは、当時、鹿児島空港から飛んでいた「エアーナウル」(Air Nauru)で南太平洋の「ナウル」まで行き、そしてナウルからでタラワ(Tarawa)に飛び、週1便のエアーパシフィック(Air Pacific)でエリス諸島の「Funafuti」に行った。

 ナウルは「南緯0度32分 東経166度56分」に位置し、日本から6000kmほどの距離にある。
 鹿児島ー那覇ーグアムーミクロネシア連邦のポナペ(ポンペイ島)経由でナウル間をナウル航空が週2便程度飛んでいた。
鹿児島からのAir Nauru機はオランダ製「フォッカー F28」の双発ジェット機だったと思う。座席は50席位はあったと思うが乗客は私たちを含めて数名しかおらずガラガラだった。それにもかかわらず日本人CA1名を含む数名のCAを搭乗させていた。
 当時のナウル「リン鉱石」で世界有数のリッチ国だったから乗客が極端に少なく乗客ゼロでも飛ばせていたのである。
 また、なぜ「ナウル航空」が鹿児島から飛ばしていたのは、羽田空港に枠がなく乗り入れできなかったからである。(*成田空港は1978年5月開港なので1976年当時はまだ成田空港もなかった)


 「ギルバート&エリス諸島」への途中、「ナウル」で乗り継ぎのため往復各1泊ナウル泊になった。ナウルのビザは当時、ナウル島唯一の「メネンホテル」宿泊者には現地空港で得られた。そうしないと大使館が少ないナウルのビザを取得するには時間を要するのである。

 トランジット目的のナウルだったので詳しく島を見ていないがナウル島の周囲は車で数10分程度の小島だった。南太平洋の島とはいえ風光明媚な風景とはお世辞にも言えない海岸だったと記憶する。
それもそうである。小島は主産品であるリン鉱石を掘り出しているからである。

↑メネンホテル

 ナウルでは我々より先にエリス諸島の「Funafuti」(現ツバル)に行き、アメリカに帰国途中の世界的に有名な趣味仲間夫婦とメネンホテルで出くわし言葉を交わしたこともあった。

鹿児島から出発時のナウル航空の2つの出来事
 我々の機材はかなり多く、重量オーバーしていた。鹿児島までの国内便は機材重量超過扱いにならなかったがナウル航空国際便では超過料金を請求された。鹿児島空港でのナウル航空の各業務は日本航空が代行していた。
 超過料金は普通運賃の一人分相当額だった。多少の超過は覚悟していたがびっくり仰天!
想定をしていなかった、この先の旅もあり余分の持ち金がないなどと懇願し必死に訴えたと記憶する。
フライトの出発時間も迫りピンチに陥ってしまったが乗客が少なく、従ってフライト全体の荷物も少なかったことから最終的には超過免除に漕ぎつけた。

 一難去ってまた別の困難が発生した。
持ち込み機材の3m程度のパイプがナウル航空機の荷物室が小さく入らない。よって預かり手荷物として載せられないと断りを伝えられた。国内便の機種は大きいので問題とならなかったが小型機のフォッカー機では問題となった訳である。
 パイプも必需の携行機材の1つなので持って行けないのは絶対に困るとまた必死に訴えた。
最終的な解決策は客室内にパイプを持ち込み客席のシート足に括り付けることになった。前述のようにこの時のフライト乗客は我々は3人と他に1名の4人だったので客席はガラガラに空いていたことが功を奏した。
 45年前の昔話になったが、今ではこんなことはできないだろうと思う。
当時、鹿児島空港で対応して頂いた方々に感謝と若気の至りのご容赦を頂きたいと思う。


ナウル共和国(通称ナウル)
 太平洋南西部に位置するナウル島にある共和国である。面積21㎢、人口11000人程度の小国である。
 かつては、リン鉱石の輸出によって栄えた。1980年代には太平洋地域で最も高い生活水準を享受し、公共料金や税金は無料という生活を謳歌していた。ナウルのリン鉱石は鳥糞石、糞化石質リン鉱石ともいい、ナウルは鳥の糞でできた島だったのだ。
有限のリン鉱石の掘削により、リン鉱石は枯渇となり1990年代後半から経済が破綻状態となり、再建に向け模索が続いている。
 
ナウル航空(Nauru Airlines)
当時は国営のナウルの航空会社。1970年~2006年まではエア・ナウル(Air Nauru、ナウル航空とも)と、2006年~2014年7月31日はアワー航空(Our Airline)と称していた。
 前身のエアナウルは1970年に設立され、ナウル島の中心地、ヤレン地区にあるナウル国際空港をベースに、ボーイング727やボーイング737-200、フォッカー F28などでオーストラリアやニュージーランドなどの近隣諸国や日本(鹿児島空港と那覇空港)、グアムやホノルルなどの太平洋地域を中心に就航していた。機体の整備等は外国に委託していた。
 しかし、ナウルの主要産業であったリンの採掘が枯渇したために、1990年代に国家財政が破綻した。
 その後も運航を続けていたが、2000年代に入り経営状況が逼迫し、2005年12月にオーストラリアのメルボルンで債権者によってボーイング737-400を差し押さえられた。 しかしナウルが国交を結んでいる主要な援助国である中華民国政府の援助によりボーイング737-300型機を新たに購入。2006年9月より運航を再開し、同時に社名をアワー航空に変更した。
 2014年8月1日には、社名が現在のナウル航空に再び変更された。また、これ以降ボーイング737-300の追加導入を進めるとともに、貨物専用機も導入した。現在はオーストラリアのカンタス航空とのコードシェア運航や、キリバス航空からウェットリースの運航も委託するなどネットワークを拡大している。
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