”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第16回】有効需要があるところに出店・現在の灘の生一本「扇正宗」の野田六左衛門(滋賀県日野町)

初代野田六左衛門金平、享保8年(1723)に生まれ。蒲生郡野田村(滋賀県日野町)の農家の次男。近江日野商人。
 
野田六左衛門家の初代金平は、1734年(享保19年)、11歳で近江同郷の高井作右衛門に奉公し、1736年(元文元年)に高井作右衛門の上州国藤岡(群馬)の酒造業の出店に入り主家のために奮闘した。
年期奉公が明けた1753年(宝暦3年)、30歳の時、別家独立し、中山道の板鼻宿(現、群馬県安中市)で「酒造業とよろず卸し」小売商を始めた。出店の屋号は「十一屋六左衛門」と呼んだ。
当時の板鼻宿は東海道の大井川と同様の渡し場で62軒もの宿場町で大いに繁盛していた。
1764年(明和元年)には、初代野田六左衛門金平の努力が結実し酒造業の基礎が固まった。それは初代野田六左衛門が選んだ板鼻宿が商売に適した土地柄と酒造業を選択したのが良かった。
 
二代目金平は、初代の娘「そえ」に迎えた同郷の今堀村出身の養子。取扱品は造酒・荒物・雑穀で二代目の時代には、高崎藩や安中藩といった近隣の諸藩に貸付も行っており、外来商人として既に目立つ存在になっていた。二代目は文化10年(1813)に65歳で没した。
 
三代目金平の時代の大きな出来事は、同郷の近江日野商人で、板鼻宿出店の釜屋(小森久左衛門釜屋新八)からの失火によって酒蔵を残らず焼失した。火災は文政5年正月11日に発生。板鼻宿の領主は、焼失による痛手を被った三代目に対し、地元有力者の立会いのもとで、出店を再築して営業を続けるようにと慰留している。
この被災をきっかけに、野田家が出店を引き払うのではないかと危惧されていたので、このことは、野田家の板鼻宿出店が既に地域に根を張り、地元に不可欠の存在にまで成長していたことを物語っていたといえる。
 
三代目は56歳で没する前年、文政10年(1827)に遺言を書き、これが、明治になってから改めて家訓として制定された「家訓 家事改革秘書」になった。
内容は、商家の主人としての自覚を促す全文50か条の教戒の書。世間の豪家や富家の盛衰は、一に主人の行状に懸かっているとして、質素倹約による家業精励を説いている。
 
三代目の実子である専太郎は四代目金平を継いだのだが、後に父親の危惧したとおりの行状によって家産を蕩尽し、当主の座を追われた。
 
家業を建て直したのは、弘化3年(1846)に兄の後を継ぎ、五代目金平となった異母弟の金治郎で、五代目は中興の祖と言われた大物である。五代目金平以降、当主は野田六左衛門を名乗るようになり、近代の隆盛を迎えた。
 
六代目も傑物で、1879年(明治12年)に三重、東京にも酒問屋を開いた。
 
五代目以後は、分家を設けて経営陣を強化し、従業員にも利益の一部を賞与として与えることによって、長期勤続の忠良な奉公人にも恵まれた。経営陣の強化と良質な従業員という二つの経営要素が相まって、近代に続く野田六左衛門家の経営を支えたのである。
 
野田六左衛門家は明治以降も、群馬県安中市板鼻町に出店していた「十一屋酒造(銘酒群鶴)は平成7年に閉店している。また、鈴鹿市に「十一屋野田商店・鈴木酒販」が存在したらしいがその後は不明である。
 
現在の野田家は8代目が兵庫県西宮市で灘五郷の1つ、1751年(宝暦元年)創業の今津酒造会社(扇正宗)を経営している。
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