児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年) - 昭和5年(1930年))は、明治から大正期の滋賀県彦根市出身の実業家。
東洋綿花株式会社(トーメンを経て豊田通商と合併)を創設。また、輸出綿糸組合を結成するなど綿業界の再建に尽力し、豊田紡織や三井物産の取締役・大阪市教化委員・資源審議会委員などを歴任した。
児玉一造は、明治14年(1881年)3月20日に滋賀県犬上郡彦根町大字芹橋(現彦根市芹橋)で児玉貞次郎と美衛の子として誕生した。
父貞治郎は美濃国養老郡の高木利右衛門の子で、長浜(後の神照村)の児玉助三郎の養子となり、江波伴三の娘美衛と結婚した後、彦根藩足軽の株を買い、明治維新後は家屋の壊し屋を家業としていた。
児玉一造は少年時腕白で、彦根尋常小学校3年時に先生に墨壺を投げつけたことから退校処分となっている。このため一時、愛知県知多郡大谷村(現愛知県常滑市大谷)の伯父竹内庫太郎に預けられ、大谷村立大谷尋常小学校に通った。
しかし、3カ月で復校を許され、彦根尋常小学校に戻った。腕白だったが学業は作文で賞をとり、成績も学年ごとに優等賞を受けるなど優秀だったらしい。
明治28年(1895年)14歳、彦根高等尋常小学校(現彦根市立城東小学校)を卒業後、名古屋市内の菓子商に丁稚奉公に出たが、仕事が合わずすぐに辞め実家に戻った。
そこで偶々、行員を募集していた近江銀行(1944年に安田銀行に合併)の採用試験を受け、同行に就職し掛け金回収を担当した。近江銀行時代、責任ある仕事を行うためには学歴が必要と痛感し、銀行業務の傍ら泰西学館(明治時代のキリスト教系の私立男子中学校、大阪市)に通い日夜を惜しみ勉強した。
明治31年(1898年)17歳、滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を訪問し、当時の波多野校長に面会の上「卒業試験に応じたい」との前代未聞の申し入れを行った。
商業学校は一造の申し入れを拒否したが、見所を感じた校長が2年への編入試験受験を一造に薦め、見事に合格した一造は近江銀行を退職し商業学校2年生となった。
明治33年(1900年)19歳、商業学校卒業に際し、近江商業銀行から入行を薦められたが東京高等商業学校(後に東京商科大学を経て、現一橋大学)入学を希望した。
当時、滋賀県立商業学校から東京高等商業学校には簡易入試での受験枠が一つあり、これに応募した。しかし、一年上の先輩が募集したため同人が優先されることになり、一造の高等商業学校進学は失敗した。
そこで、滋賀県立商業学校入学時の波多野校長を頼り、同校長が当時務めていた静岡県立商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)に助教諭となった。
偶々、「三井物産合資会社」が支那研修生を募集していることを知り、波多野校長に相談し同人の推薦状を得て面接に臨んだところ、研修生に採用される事になった。
明治33年(1900年)、児玉一造は、8月から三井物産厦門出張所で研修を受けることとなった。なお、支那研修生同期には森恪(もりかく)(三井物産出身で昭和戦前期の衆議院議員)がいた。
当時、厦門(福建省アモイ)にはジャーディン・マセソン商会の事務所があり、彼らが流暢な中国語で商売する姿を見て、商売をするためには自由に中国語が出来なければ話にならないと悟り、一造は家庭教師を雇い、街中の中国人とも頻繁に話をして中国語と台湾語を身に付けた。研修1年で三井物産に本採用されると、若手で中国語に堪能な社員として知られるようになった。
三井物産の中国ビジネスを統括していた藤原銀次郎(戦前の三井財閥の中心人物の一人で、富岡製糸場支配人から王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」と言われた)は、研修生の時から一造の仕事ぶりを評価し、本採用直後には厦門出張所を一造に任せた。
明治35年(1902年)21歳の時、台北支店長であった藤原銀次郎は一造を台湾に呼び、翌年台南出張所の責任者に命じた。
日露戦争の最中、台湾総督であった児玉源太郎は総参謀長として満州におり、児玉源太郎から台湾総督府民政局長官であった後藤新平に米20万石の調達命令があり、藤原銀次郎を介して一造が米の買い付けを行うこととなった。一造は台湾奥地にまで入り込み、流暢な言葉で交渉を行い、瞬く間に20万石の米買い付けを成功した。
また、当時、台湾発展の為には製糖事業が重要との認識が官民一体としてあり、児玉一造は自分の仕事ではないが進んで製糖会社の土地買収に協力していた。
日頃一造の活躍を妬む人間が、一造は「いやがる土地所有者から無理やり土地を売却させている」との噂を流し、総督府まで噂が流れ一造の退去命令が出されるに及び、一造は単身、後藤新兵民政局長に面談を求め実情を話し、その結果、大いに後藤新兵から信頼を得たとされる。
中国での仕事を評価され、明治38年(1905年)24歳、6月ロンドン支店勤務を命じられ、ドイツハンブルク出張所長となった。
ハンブルクでは、現地スタッフを叱った話が逸話として残されている。
一造は、現地スタッフを叱る時、最初はドイツ語で、次に英語となり、いよいよ感情が昂ると日本語となった。これを現地スタッフは面白がり、よく一造の叱る姿が物真似されたと言う。それほど、一造は中国語に加えてヨーロッパ赴任に際して徹底的に英語とドイツ語の勉強を行った。
明治41年(1908年)27歳、一時帰国を許された一造は、第十五銀行頭取園田孝吉の3女米子と結婚し、同年6月再度ロンドン支店勤務を命じられた。ロンドンでは、満州大豆に着眼し、新しいビジネスとして満州大豆のヨーロッパ輸出事業を構築した。
大正元年(1912年)31歳、8月ロンドンより帰国し、12月にはわずか31歳で三井物産名古屋支店長を命じられた。
名古屋では豊田式織機株式会社の豊田佐吉や服部商店服部兼三郎(会社はのち興和紡績、興和、興和新薬などのコーワグループ)、三重紡績(渋沢栄一の支援を受けて発足した会社で現東洋紡)岡常夫等と出会い、自動織機の発明者である豊田佐吉に対しては物心両面にわたり支援を行った。
後に豊田佐吉は一造の弟児玉利三郎(豊田利三郎)を婿養子に迎え入れた。また、岡常夫(東洋紡の元専務)は一造の異才に注目し、大阪綿業界に進出することを強く後押しした。
大正3年(1914年)33歳、2月、岡常夫の強い推薦もあり、三井物産大阪支店綿花部長に就任した。ここでも一造の語学力は大いに活き、大正8年(1919年)38歳、にアメリカテキサス州ダラスを中心として出張に行った際は、現地子会社社員を前に演説し、また、「ビッグボス」と呼ばれ社員の心を掴んだ。
この頃、前年に第一次世界大戦が終結し各国経済は不況となりつつあった。綿花相場も乱高下の危険性高く、一造は三井物産本社から相場リスクにさらされている綿花部門を切り離すべきとの考えを持ち、
大正9年(1920年)39歳、4月三井物産綿花部を独立し、東洋綿花(株)を設立し、専務取締役に就任した。
児玉一造は、自社の業務に精励するばかりでなく、綿花関連事業全体の発展にも精力的に一造は活動した。
世界恐慌を前に綿花事業者が金融からの信用力を得られ、かつ輸出事業をより促進させるために綿糸輸出組合を設立にも奔走した。
会長就任後の昭和2年(1927年)48歳、インド視察に赴き、日印間の無電開通にも一役買った。関西綿糸業界・財界で幅広く活躍し、豊田紡織・三井物産取締役等を兼ね、様々な公職を歴任すると共に、故郷滋賀県における県立工業学校(1920年創立の滋賀県立彦根工業学校=現彦根工業高校)や彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部の前身)建設にも尽力した。
これらの活動が認められ。大正14年(1925年)44歳、に紺綬褒章を受章し、昭和3年(1928年)47歳、には勲四等瑞宝章を受勲した。
昭和5年(1930年)49歳、1月10日、東洋綿花会長として株主総会を治めた後、1月20日腹痛に襲われ一時は持ち直したが1月30日に急逝した。死因は胃潰瘍。49歳没。
児玉一造は49歳の短命であったが関西綿糸業界・財界で幅広く活躍し、滋賀県内の学校建設にも尽力した波瀾万丈の人生だった。
児玉一造がいなかったら自動織機の発明者である豊田佐吉との接点もなく、豊田佐吉に対しての物心両面にわたる支援もなかった。一造の活動や人脈は、児玉一造の弟利三郎が豊田佐吉の娘婿となり豊田利三郎となることや、後発のトヨタ自動車の初代社長就任や豊田グループの経営者になるなど後続への大きな貢献に繋がっている。
<Wikipedia等引用>