”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第51回】日本のエレクトロニクスの開拓者・安藤 博(大津市)

安藤 博(あんどう ひろし、1902年9月25日 - 1975年2月21日)は、滋賀県滋賀郡膳所町(現・大津市膳所)出身の発明家で、日本におけるエレクトロニクスの開拓者。日本のエジソン、東洋のマルコーニなどと呼ばれた。放送関連の研究に従事し、英語のブロードキャスト (broadcast) に「放送」という訳語を付けた。

↑右が安藤博

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日本の通信・放送技術の神様と言うべき天才「安藤 博」が  滋賀県の大津市に生まれていた。

今から1世紀前からちょっと昔の40年前まで、主に個人の力で研究開発を行い、日本の通信・放送技術に多大な貢献をしていた天才なのだ。謄写版(ガリ版)印刷機の開発者である堀井 新治郎と同じく滋賀県に生まれ、成人して東京に出て大成していたので滋賀の色は薄まっているかも知れないが紛れもない滋賀県の偉人である。

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「安藤 博」は明治35年(1902年 )、滋賀県の大津市の琵琶湖畔膳所(ぜぜ)町に生れ。

満8才(1910年)の頃より科学的方面に特に深甚なる興味を表わし、専門的知識を吸収、数多の発明考案を完成し、その特許を獲得するなど発明の天才の出現として世上に宣伝され、 またTYK式無線電話の発明者・逓信技師鳥潟右一氏等より第2のマルコーニと称せられた

主要な発明品
多極真空管
NE式写真電送装置(FAXの元祖)に使われた同期検定装置
プッシュプル増幅回路

大正3年(1914年)、一般にエレクトロニクスとよばれる分野、すなわち電子管、電波、その他電子技術の実験施設を有するわが国最初の研究機関として安藤研究所を設立し、研究努力を集中した。
大正3年より同8年(1919年)の間には、その結果として既に1中学生の身を以って世界発明史上、エジソン(米)→フレミング(英)→ド・フォレ(米)→安藤博(日)と銘記されている真空管に関する画期的発明を成就した。


大正 9年(1920年)、明治学院中学部を卒業後直ちに早稲田大学理工学部予科に入学、大正14年(1925年)早稲田大学理工学部を卒業したが、その研究歴は小中学生より始まり、この時代に既に世界に範を示す幾多の発明を成就している点に於て常人と全くその軌を異にしているものである。

多極真空管
大正10年(1921年)、逓信省は1少年であった本発明者に、わが国最初の無線電話・無線電信の私設実験局(呼出符号JFWA)の設置を許可した。
この施設によって、ラジオ放送の実験を自己の発明にかかる多極真空管その他多数の発明を以って、定期的に実施することにより放送事業開始の機運を盛り上げ、大正12年(1923年)、社団法人東京放送局の発起設立者の1人となり、現在の日本放送協会(NHK)の発起設立に関わった。

また、大正10年(1921年)よりテレビジョンの研究にも従事したが、この間わが国最初のテレビジョン放送を行い、現在実用されているテレビジョンに不可欠な技術的基礎をなしている遮蔽グリッド管とその回路,加速グリットを有するブラウン管、テレビカメラ内にある撮像管としての二次電子増幅管の世界創始発明等を含む多数の発明を完成した。
大正11年(1922年)には早大出版部より「無線電話」を著作発行、無線放送の技術的方面を解明した最初の著作であり数十版を重ねた。
その他多数の著作を刊行して電波科学技術の啓蒙に資すると共に放送事業開設の機運を作ることに役立った。
また、大正11年(1922年)にはいわゆる「ニュートロダイン」の発明を完成した。
 この発明は戦後米国の発明であるトランジスターにも不可欠の要部として組み合わされて実施、高周波工学上不可欠の基本的なものである。
大正14年(1925年)、「ニュートロダイン」高周波増幅方式の寄生振動の阻止法の発明完成。これは写真電送 (NE式その他あらゆる方式) に不可欠の要部として実施、またブラウン管式テレビジョンにも不可欠的に実施されている。

昭和3年(1928年)3月から同4年(1929年)夏の間、欧米視察をなし、マルコーニ、ベアード、ミハレー(1920年、ブラウン管底に画くテレビジョンを公開した創始者)、バルクハウゼン、ジェンキンス等著名発明家と意見を交換、マルコーニ・ビーム国際無線電話で最初の邦人として米・英間の通話を試みる等多大の収穫を得た。
昭和4年(1929年)帰国早々、ツェッペリン飛行船世界一周に際し、いまだ
ウラル山手前に飛行していた時、既に自己の諸発明、特に多極真空管の応用によりツェッペリン飛行船上からの発信を唯一日本で受信し、機上にお守り猫が同乗していた事等のエピソードを朝日新聞紙上で周知させた。

昭和8年(1933年)より同12年(1937年)の間はロッシェル塩その他の結晶の圧電気効果を利用したピックアップ、マイクロフォンの応用を研究し、幾多の発明を完成、ラジオ、ステレオ、録音機等に広く利用された。
昭和12年(1937年)6月、日本電気株式会社が共同設立者となり、財団法人を設立。
昭和13年(1938年)8月、財団法人安藤研究所認可と共にその理事長に就任するに至った。また,同年積分式テレビ受像法及びブラウン管の発明を完成した。
昭和14年(1939年)5月には日本10大発明家宮中賜餐の1人に列せられ、三島徳七、岡部金次郎、大河内正敏、古賀逸策の諸氏と共に栄誉を授けられた。

昭和20年(1945年)5月、現在の貨幣価値で数億円に値する真空管製造施設等の貴重な研究施設一切を空襲で焼失したが戦後はバラックから再出発、後に鉄筋コンクリート造りによる研究所の再建第一期工事、 続いて第二期工事を完成させた。

昭和27年(1952年)3月より同年6月に至る間、わが国テレビ創始発明者としてテレビジョン放送電波基準設定その他各種法制化に参画し、現在のテレビ放送事業の技術基準作成に貢献した。
昭和25年(1950年)より同30年(1955年)に至る間、五極又は四極出力管回路の発明を完成し、昭和30年(1955年)より同36年(1961年)までには多極管作動回路の発明を完成した。
また昭和30年(1955年)より同50年(1975年)の間、NTSC方式によらず、二次電子銃,シャドーマスク不要の方式によるカラーテレビジョンの開発に携わった。
昭和38年(1963年)7月より9月に至る間ヨーロッパ11ヵ国に出張、 これら諸国のエレクトロニクス、放送施設、ラジオ、テレビジョン、宇宙通信施設等を視察した。

テレビジョンの公開実験
以上,安藤博の大正3年(1914年)から半世紀以上にわたる発明考案、諸研究は数千件に達したが、それらの努力研究は幼時に培われた科学に対する情熱なくしては到底なしえ難いものであった。
今日文化の突端を行く巨大なる産業、エレクトロニクスの創始的地位を担うに至り、エレクトロニクス機器のあるところ安藤博の発明の実施されざるものなしという実状になったが、なおこれに満足せず日夜研究に没頭し続け、昭和50年(1975年)2月、研究中の火災事故で生涯を閉じた

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