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【滋賀・近江の先人第118回】「先義後利栄」主義に徹した近江商人・初代西川利右衛門(近江八幡市)

 初代西川利右衛門(にしかわ りえもん、1590年(天正18年) - 1646年(正保2年)は、江戸時代初期に江戸へ出店した老舗近江商人。屋号は「大文字屋」・「近江屋」。

ストリー
 西川家初代西川勘右衛門数吉は、元朝倉氏の家臣で「木原」と称していたが、主家滅亡後、蒲生郡市村に居住し西川氏の養子となった。

 初代西川利右衛門は勘右衛門の長男として蒲生郡市村に生まれた。
当初は父の名より勘右衛門数政と称していたが、市村より八幡新町に居を移し、利右衛門と改名した。
 利右衛門は一匹の馬を購入し、馬に多くの荷駄を載せ東海道を江戸迄往復し、畳表・縁地・蚊帳等の行商を行った。行商を基に蓄財し、大阪瓦町に出店を設け近江屋八右衛門と称し、その後、江戸日本橋にも出店を設け大文字屋嘉兵衛の名義を用いた。
 信用第一とした商売は評価され、終には江戸城本丸及び西の丸の畳替えを一手に引き受けたことから、益々畳表・縁地・蚊帳において世の中より高い信頼と評価を得ることが出来、家政は隆盛を極めた。

当時江戸日本橋通り近江商人が出店していた店を全て近江店と称されていたが、その中でも大文字屋は最も繁盛していた。初代利右衛門は1646年1月((旧暦)正保2年12月)に死去した。
西川利右衛門家は、1930年(昭和5年)に後継者が無いまま11代目が亡くなり、約300年にわたって活躍した西川家は終焉を迎えた。

家訓(語録)
「先義後利栄 好富施其徳」(義を先にし、利を後にすれば栄え、富を好しとし、其の徳を施せ)、商いは義理人情を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、得られた富に見合った人間形成を行えと説いている。目先の利益よりも遠きを見てすることが大切であると教えた。
この考えは荀子が説いた「先議而後利者栄」の影響を受けたものと考えられる。


西川利右衛門家
父西川(木原)勘右衛門数吉: 越前朝倉氏家臣。
西川利右衛門 (初代)数政: 勘右衛門数吉長男、蒲生郡市村に生まれ八幡町新町に移住し、大坂(近江屋)・江戸(大文字屋)に出店を構える。
西川利右衛門 (2代)重数: 数政長男。
 次男 西川庄六(分家し、西川庄六家)
 四男 西川仁右衛門(分家し、西川仁右衛門家)

西川利右衛門 (3代)数正: 重数長男。妻は扇屋伴兵衛の娘。
西川利右衛門 (4代)数常: 隠居後5代・6代利右衛門の後見となり、隆盛期を迎える。
西川利右衛門 (5代)治記: 数常長男。
西川利右衛門 (6代)数亮: 数常五男、京都店を開設する。
西川利右衛門 (7代)数孝: 3代目西川庄六数久の長男。
西川利右衛門 (8代)数喜: 備中早嶋店を開設する。
西川利右衛門 (9代)数繁
西川利右衛門 (10代)数雅: 4代目西川庄六数居の三男。
西川利右衛門 (11代)徳浄: 7代目西川庄六数富次男、最後の当主。

一族(主な分家)
西川庄六家: 2代目利右衛門重数の次男が分家、大文字屋と称し江戸に出店を構える。
    西川庄六 (3代)数久: 4代目利右衛門数常の次男、庄六家最盛期を築く。

尚、西川庄六については
【滋賀・近江の先人第117回】江戸期の「セレクトショップ」・西川庄六(近江八幡市) で紹介している。    

西川仁右衛門家: 2代利右衛門重数の四男が分家、近江屋と称し大阪に出店を構える。
西川徳蔵家: 4代利右衛門数常の四男が分家、大文字屋と称し薬問屋を営み大坂・京都に出店を構える。

旧「西川利右衛門家住宅」は現在「近江八幡市立資料館」として公開されている。3代目によって宝永3年(1706年)に建てられたもので、昭和58年1月に国の重要文化財に指定され、昭和60年10月より33ヶ月の工期を経て、改修されている。
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/999

<Wikipediaより引用>

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