布施 公雄(ふせ きみかつ)生没年不詳、戦国時代の武将。近江守護六角氏、織田氏の家臣。大森城(東近江市)が布施淡路守系(本家)の居城と考えられている
別名淡路入道、官位淡路守。主君六角義賢→義治→織田信長。子は布施公保。
ヒストリー
永禄3年(1560年)、六角義治が斎藤義龍と婚姻を結ぼうとして、先代である父・義賢が反対した際に、義賢から叱責された5人の宿老の中に布施公雄の名前がある。
永禄9年(1566年)、六角義治に不信を抱き浅井長政に通じて謀反を起こし篭城、寄せ手の大将・三雲賢持(三雲成持の兄)に抗戦するも許される。
翌10年(1567年)、六角氏式目に連署。
永禄11年(1568年)、織田信長が侵攻してくると臣従した。
別名淡路入道、官位淡路守。主君六角義賢→義治→織田信長。子は布施公保。
ヒストリー
永禄3年(1560年)、六角義治が斎藤義龍と婚姻を結ぼうとして、先代である父・義賢が反対した際に、義賢から叱責された5人の宿老の中に布施公雄の名前がある。
永禄9年(1566年)、六角義治に不信を抱き浅井長政に通じて謀反を起こし篭城、寄せ手の大将・三雲賢持(三雲成持の兄)に抗戦するも許される。
翌10年(1567年)、六角氏式目に連署。
永禄11年(1568年)、織田信長が侵攻してくると臣従した。
布施公保(ふせのきみやす)
藤九郎。布施氏は伊賀氏。近江伊香郡布施(現長浜市木ノ本町)の住人。布施 公雄の子。
1570年信長が北陸朝倉攻めの後、岐阜に帰城する途中、5月日野で接待する。
1578年8月、信長主催の安土の相撲に奉行として参加。
1580年3月、蒲生賢秀の家中から「布施公保」が信長の馬廻りに召し加えられ、城下の入江を埋めて屋敷として下される。
1582年6月本能寺の変のとき、多賀常則らとともに明智光秀に属した。
藤九郎。布施氏は伊賀氏。近江伊香郡布施(現長浜市木ノ本町)の住人。布施 公雄の子。
1570年信長が北陸朝倉攻めの後、岐阜に帰城する途中、5月日野で接待する。
1578年8月、信長主催の安土の相撲に奉行として参加。
1580年3月、蒲生賢秀の家中から「布施公保」が信長の馬廻りに召し加えられ、城下の入江を埋めて屋敷として下される。
1582年6月本能寺の変のとき、多賀常則らとともに明智光秀に属した。
【滋賀・近江の先人第141回】織田信長の千草越え逃亡を助けた・布施藤九郎(東近江市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/c5c678f646ec2e9d666a41e0bc5c4890
<Wikipediaより引用>
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/c5c678f646ec2e9d666a41e0bc5c4890
<Wikipediaより引用>