夫が すたすた歩いて行く。待って 待って 私を置いていかないで~
通行止めのバリケードの脇をすり抜けて行く帰宅への道。まだ雨が降ってないので 両手の二つの傘を山登りのステックのように突いて歩く。
崖から水が小さい滝のように落ちてくる。
道路は土砂と石ころだらけ。
川向こうに新しい崖崩れ
重機は無事ですが 重いはずの黄色いタンクは倒れている。
この辺りの護岸は無事のようだが巨大な石が道路上に。
トラックがあると思ったら
実は 潰れていたという事実。安全な場所に置いてはずなのに 自然の猛威に安全な場所はないようだ。
ここらの護岸は維持されている。
平原橋は無事だが この先の平原地区の方々は 奥に う回路が無く、平原橋を渡って歩いて湯平駅方面にいくしかないわけで 不便であろう。生協も届けられないと聞いた。
平原橋を渡った右側の作業現場から 重機が転落。護岸も かなり落ちている。
川の中に築かれた堤防が半分崩れている。技術を上回る自然の力。
旧湯平小学校のそばのW家の前の道路が完全陥没。ここが道路で一番酷い崩れ方。手前からW家の駐車場に入らせてもらい、避難から帰っていたWさんと話す。
随分昔の水害後に築かれた小さなダムから水が流れ落ちる。その水害の時はWさんの右の家の お一人が流され亡くなっている。
小学校前の崖崩れ。
小学校のグラウンドには木材で組んだ枡のようなものが。後から聞いたら これを川の中に埋め、それに石や砂利を詰め、その上からコンクリートを流し込んで川底にするらしい。
いつもは無い場所に滝が現れる。
大雨の時だけに出現する滝です。
地区公民館入口が右手に見える。その向こうのMさん宅も二年前同様 地区公民館に避難。今度は床下浸水と裏には土砂が流入。
ちょうど奥さんが居て「お互い頑張ろうね」と励ましあう。
後日 大分大学の学生やボランティアがバケツリレーで 家の裏の泥を掻き出す様子がテレビで出ていた。
2年前、うちの庭も 多くのボランティアの皆さんが作業してくれたことを思い出す。
話を戻そう。
地区公民館への入口
前回崩れた場所は土嚢がおいたままの措置で 上から水が流れ落ちている。
川の中の杉は右が二年前に傷んだもの。左が今回傷んだもの。
杉が倒れて電線に ひっかっている。
削られた木や、折れた木が
この辺りから 道路のアスファルトが壊れ、剥がれだす。
皮が削られた木が倒れ 足元には重機が おし潰されている
架替え途中の熊橋(正しくは熊尾橋)が見えてきた
先の方に作業員三人と車が見える。山下池回りで来たようだ。
『熊の坂の供養碑』は以前は もう少し上にあったけど 工事のために 少し下に移動して鉄板の上にあった。享保8年(1723年)に大地震があり、被災者の遺体がこの場所に多数流れ着いたという 。その4年後に供養碑が建てられたそう。大分中部大地震が1975年、熊本(大分)大地震が2016年、2020年の大水害は 約300年ぶり(正しくは297年)ということになる。そして また2年後にもまた・・・
後ろを振り返ると 杉の葉。
前も杉の葉の道路。どんだけ風が吹いたのだろう。
この先にいた作業員さんと話したが、歩き始めの時 警備員が電話した相手だった。
さらに行くと 若い二人の作業員さんが 高齢者二人が歩いて上がっているのを見て不憫に思ったのだろう、作業車で橋本橋まで乗せてくれた。大変な時に優しくされると うれしくて何度もお礼を言う。
現代版『しぐるゝや 人の情けに 涙ぐむ』(昭和5年 種田山頭火 作)
そういえば、二年前も歩いた最後の方で 地元の軽トラの後ろに乗せてもらったことを思い出す。私も 湯平駅の行き帰りに歩いている人を見ると、声をかけ 乗せるようになった。
湯布院の避難先に写真や動画を送ってくれた方々のおかげで 家や隠居は無事なことはわかっていたけど やっぱり実際に立っていたのを見て安心する。みんな ありがとう。帰ってきたよ。
1日たって 嘘のように水は引いて 緩やかに流れている。ツイッターで見た 荒れ狂う川と同じとは思えないほど 流れは静かだ。
夫が心配していた店奥の出窓の雨漏りは ギリギリセーフ。うまいこと 漏れた水を引き込みました。
ここは普通の雨なら漏らないが、風雨の強い日は天井から漏れるのです。継ぎ足しの古い家です。
近所の家の板壁に張ったトタンが はげている。
お隣の畑の野菜も かなり倒れて
楽しみしていた コキアも倒れてしまった。
さてさて やっと たどり着いたはいいが 下に置いてきた車を回収に行かなければならない。もちろん夫が。
日記代わりの記録と記憶の場所なので 長々と書いてしまった。少し時間がかかった。
こんな道中だったが 2年前に歩いた時と比べたら だんぜん楽だった。2年前は危険がいっぱいの道中であった。終わり。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます