こんにちは。今日は、小説の話を。
ちょっと前に、「歩行と舞踏のあいだで」という題で、『それから』と『第七官界彷徨』について書いてましたが、「舞踏」が重要な役割を果たす小説に、山尾悠子の「夢の棲む街」があります。
山尾悠子は1970年代後半にデビュー。SF系の雑誌などを媒体に活躍していましたが、SFがひとつのジャンルに分類できないような作品を許容していた時代。幻想文学とも純文学ともつかない、澁澤龍彦的なものを引き受け、昇華したした作風が特徴です。寡作ながらも硬質華麗な文体でカルト的な人気を誇っていましたが、1990年代は沈黙。2000年に国書刊行会から作品集成が刊行されたことを契機に執筆活動を再開しました。
モンス・デジデリオの倒壊する巨大建築物の絵が背景に使われた、作品集成の案内に掲げられた、「誰かが私に/言ったのだ/世界は言葉で/できていると」という言葉が、彼女の作品世界を象徴しています。
***
「夢の棲む街」は代表作のひとつ。初出は1976年、『SFマガジン』の7月号に掲載された。その後1977年に単行本『夢の棲む街』におさめられる。
舞台は「浅い漏斗型」(10頁)をし、底に当たる中心部分に「円形劇場」(9頁)がある円環状の街。人々は昼間眠り、夜起きて、建物は固定された場所にあるのではなく「〈ある任意の一点〉に存在する」(17頁)。増殖し癒着する天使や脚だけが肥大する踊り子「薔薇色の脚」など、「サディスティックな畸形的イメージが次から次へと現れる」(石堂藍「改題」)。この物語の語り手となるのが、「夢喰い虫」の「バク」である。
〈夢喰い虫〉の仕事は、街の噂を収集しそれを街中に広めることである。(中略)街の住人たちは、それぞれの寝床の中で、眠りながら薄く目をあけて、それらの声(〈夢喰い虫〉たちが街の縁から中心に向かってささやく声、引用者注)の語る噂話を聞く。バクはこの〈夢喰い虫〉の儀式にもう数箇月間も参加できずにいたが、この街において、儀式に加われない〈夢喰い虫〉ほど中途半端な存在はなかった。務めを果たせない〈夢喰い虫〉はすでに〈夢喰い虫〉ではなく、〈夢喰い虫〉ではない何者かになってしまうのだろうかと亀裂だらけの石畳に立ってぼんやり考えていると(10~11頁)
夢喰い虫は「噂を語る声」を実体化した生き物であり、「語り手」を表象する存在でありながら、語り手としての務めを果たせない。そのきっかけとなったのが、数カ月前に「円形劇場」で起こったとある事件だった。
円形劇場では、踊る機能に特化するために脚だけが肥大した「薔薇色の脚」と呼ばれる踊り子たちが踊りを踊っていた。
知覚がまだ残っているのかどうか、踊り子たちはいつでも一言も言葉を発しなかった。(13頁)
この畸型女たちを〈薔薇色の脚〉に創りあげる方法は演出家たちの秘密とされているが、街の噂によればこれはかれらが彼女たちの脚にコトバを吹き込むことによってなされるのだという。(中略)毎夜演出家たちは踊り子の足の裏に唇を押しあてて、薔薇路色のコトバを吹き込む。ひとつのコトバが吹き込まれるたびに脚はその艶を増していくが、下半身が脂ののった魚の皮膚のような輝きを持つにつれて畸型の上半身は徐々に生気を失ってゆき、(13頁)
ある日、その踊り子たちが集団失踪する。ほどなく全員捕獲されたものの
ひとりの踊り子は脱走の理由を告白して、こう言った。(中略)――コトバがひとつ吹き込まれるたびに、私たちの脚は重くなる。私たちとて踊り子の端くれ、コトバのない世界の縁を、爪先立って踊ってみたい気があったのだ、と。それを聞いた演出家たちは怒り狂い、踊り子たちの脚からコトバを抜き取ってしまった(中略)が、そのとたんに脚たちは力を失い、死んだように動かなくなってしまったのだという。(14頁)
「踊り子を出せ」と叫ぶ観客たちへの対応を議論していた演出家たちは、
今こそ我々が踊る時だ、と一人が叫んだ。
踊り子たちの〈脚〉はなくとも、我々のペン胼胝のある手や運動不足でむくんだ脚を、コトバは覆い隠してくれる筈だ!(12頁)
と、観客たちの前で演説を始めるものの…。
物見に行っていた雑役夫の一人が竪穴を降りてきて、怒り狂った観客のひと打ちで演出家たちは全員撲殺され、ホールの中ははや流血の惨事だと報告した。踊り子を出せ、〈薔薇色の脚〉を出せ、と殺気だった観客たちは血に塗れた両手を振りかざして口々に叫んでいるという。すると、直立していた〈脚〉の群れが唐突にブルッと雌馬のように身震いした。はっと気付いて道をあけると、〈脚〉たちは次々に廊下に飛び出しはじめ、木の根のように硬直した上半身を乗せたまま狭い地下道を踏み揺るがして竪穴を駆け上がり、舞台中央に通じる穴の向こうに姿を消していった。(15頁)
こうして、演出家たちも薔薇色の脚も死に絶える。演出家の死は、言葉が作者を殺したことを表象していよう。
こうして、この夜を最後に劇場の踊り子は死に絶え、その製造方法を知っていた演出家たちも全員死亡したため、再び街に〈薔薇色の脚〉の姿が見られることはなかった。しかしその夜死に至るまで踊り続けた脚の群れはあらゆる言葉を飛び越えて美しく、それはまさに光り輝くようだったという。(16~17頁)
とあるように、舞踏はほんの一瞬の、詩的瞬間として描かれる。
ところが物語では、異変が起こり、繰り返し「あのかた」の「顕現」が囁かれるように、神のような作者の存在が噂される。「街」の中心にある「円形劇場」で起こったカタストロフィは、「街」での出来事を表象し、もう一度、同じ物語が、今度は「街」全体を舞台として起ころうとしているのだ。
そんなある日、「あのかた」からの招待状が街の人々のもとに届く。円形劇場の円柱にとまって「噂」を吹き込み、「わからない」「わからない」と言いながら落下してゆく「夢喰い虫」たち。「バク」は地下の楽屋が気になり、入り口の上蓋をこじ開けようとしながら、「あのかた」の名を大声で呼び、「中に、いるのか?」「本当は、いやしないんだろう!」(42頁)と言ったそのとき、大時計が深夜零時をさし、「機械仕掛の鐘の音」が鳴り終えると同時にゼンマイがはじけて針がぴたりと停止する。
地下で落盤が起きたらしく、円柱も硝子も崩壊し、座席は人々とともに中心へと向かって雪崩落ちる。
巨大な裸足の脚が、一撃で大地を踏み割ったようなある〈音〉が中空に轟いて、がん、と反響した音がその瞬間凝結し、同時にすべてが静止した。(43頁)
それはすべての言葉を飛び越える言葉の一撃であり、詩的瞬間を表象していよう。円形の街、円形の時間、その全てが静止する詩的瞬間として、「舞踏」の、踊り子たちの一撃が描かれている。
歩行と舞踏のあいだで彷徨した『それから』や『第七官界彷徨』とは異なり、「夢の棲む街」はまっすぐに、いやぐるぐると舞踏し続け、ある瞬間に静止する。
*本文引用は、『山尾悠子作品集成』国書刊行会、2000年による。
ちょっと前に、「歩行と舞踏のあいだで」という題で、『それから』と『第七官界彷徨』について書いてましたが、「舞踏」が重要な役割を果たす小説に、山尾悠子の「夢の棲む街」があります。
山尾悠子は1970年代後半にデビュー。SF系の雑誌などを媒体に活躍していましたが、SFがひとつのジャンルに分類できないような作品を許容していた時代。幻想文学とも純文学ともつかない、澁澤龍彦的なものを引き受け、昇華したした作風が特徴です。寡作ながらも硬質華麗な文体でカルト的な人気を誇っていましたが、1990年代は沈黙。2000年に国書刊行会から作品集成が刊行されたことを契機に執筆活動を再開しました。
モンス・デジデリオの倒壊する巨大建築物の絵が背景に使われた、作品集成の案内に掲げられた、「誰かが私に/言ったのだ/世界は言葉で/できていると」という言葉が、彼女の作品世界を象徴しています。
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「夢の棲む街」は代表作のひとつ。初出は1976年、『SFマガジン』の7月号に掲載された。その後1977年に単行本『夢の棲む街』におさめられる。
舞台は「浅い漏斗型」(10頁)をし、底に当たる中心部分に「円形劇場」(9頁)がある円環状の街。人々は昼間眠り、夜起きて、建物は固定された場所にあるのではなく「〈ある任意の一点〉に存在する」(17頁)。増殖し癒着する天使や脚だけが肥大する踊り子「薔薇色の脚」など、「サディスティックな畸形的イメージが次から次へと現れる」(石堂藍「改題」)。この物語の語り手となるのが、「夢喰い虫」の「バク」である。
〈夢喰い虫〉の仕事は、街の噂を収集しそれを街中に広めることである。(中略)街の住人たちは、それぞれの寝床の中で、眠りながら薄く目をあけて、それらの声(〈夢喰い虫〉たちが街の縁から中心に向かってささやく声、引用者注)の語る噂話を聞く。バクはこの〈夢喰い虫〉の儀式にもう数箇月間も参加できずにいたが、この街において、儀式に加われない〈夢喰い虫〉ほど中途半端な存在はなかった。務めを果たせない〈夢喰い虫〉はすでに〈夢喰い虫〉ではなく、〈夢喰い虫〉ではない何者かになってしまうのだろうかと亀裂だらけの石畳に立ってぼんやり考えていると(10~11頁)
夢喰い虫は「噂を語る声」を実体化した生き物であり、「語り手」を表象する存在でありながら、語り手としての務めを果たせない。そのきっかけとなったのが、数カ月前に「円形劇場」で起こったとある事件だった。
円形劇場では、踊る機能に特化するために脚だけが肥大した「薔薇色の脚」と呼ばれる踊り子たちが踊りを踊っていた。
知覚がまだ残っているのかどうか、踊り子たちはいつでも一言も言葉を発しなかった。(13頁)
この畸型女たちを〈薔薇色の脚〉に創りあげる方法は演出家たちの秘密とされているが、街の噂によればこれはかれらが彼女たちの脚にコトバを吹き込むことによってなされるのだという。(中略)毎夜演出家たちは踊り子の足の裏に唇を押しあてて、薔薇路色のコトバを吹き込む。ひとつのコトバが吹き込まれるたびに脚はその艶を増していくが、下半身が脂ののった魚の皮膚のような輝きを持つにつれて畸型の上半身は徐々に生気を失ってゆき、(13頁)
ある日、その踊り子たちが集団失踪する。ほどなく全員捕獲されたものの
ひとりの踊り子は脱走の理由を告白して、こう言った。(中略)――コトバがひとつ吹き込まれるたびに、私たちの脚は重くなる。私たちとて踊り子の端くれ、コトバのない世界の縁を、爪先立って踊ってみたい気があったのだ、と。それを聞いた演出家たちは怒り狂い、踊り子たちの脚からコトバを抜き取ってしまった(中略)が、そのとたんに脚たちは力を失い、死んだように動かなくなってしまったのだという。(14頁)
「踊り子を出せ」と叫ぶ観客たちへの対応を議論していた演出家たちは、
今こそ我々が踊る時だ、と一人が叫んだ。
踊り子たちの〈脚〉はなくとも、我々のペン胼胝のある手や運動不足でむくんだ脚を、コトバは覆い隠してくれる筈だ!(12頁)
と、観客たちの前で演説を始めるものの…。
物見に行っていた雑役夫の一人が竪穴を降りてきて、怒り狂った観客のひと打ちで演出家たちは全員撲殺され、ホールの中ははや流血の惨事だと報告した。踊り子を出せ、〈薔薇色の脚〉を出せ、と殺気だった観客たちは血に塗れた両手を振りかざして口々に叫んでいるという。すると、直立していた〈脚〉の群れが唐突にブルッと雌馬のように身震いした。はっと気付いて道をあけると、〈脚〉たちは次々に廊下に飛び出しはじめ、木の根のように硬直した上半身を乗せたまま狭い地下道を踏み揺るがして竪穴を駆け上がり、舞台中央に通じる穴の向こうに姿を消していった。(15頁)
こうして、演出家たちも薔薇色の脚も死に絶える。演出家の死は、言葉が作者を殺したことを表象していよう。
こうして、この夜を最後に劇場の踊り子は死に絶え、その製造方法を知っていた演出家たちも全員死亡したため、再び街に〈薔薇色の脚〉の姿が見られることはなかった。しかしその夜死に至るまで踊り続けた脚の群れはあらゆる言葉を飛び越えて美しく、それはまさに光り輝くようだったという。(16~17頁)
とあるように、舞踏はほんの一瞬の、詩的瞬間として描かれる。
ところが物語では、異変が起こり、繰り返し「あのかた」の「顕現」が囁かれるように、神のような作者の存在が噂される。「街」の中心にある「円形劇場」で起こったカタストロフィは、「街」での出来事を表象し、もう一度、同じ物語が、今度は「街」全体を舞台として起ころうとしているのだ。
そんなある日、「あのかた」からの招待状が街の人々のもとに届く。円形劇場の円柱にとまって「噂」を吹き込み、「わからない」「わからない」と言いながら落下してゆく「夢喰い虫」たち。「バク」は地下の楽屋が気になり、入り口の上蓋をこじ開けようとしながら、「あのかた」の名を大声で呼び、「中に、いるのか?」「本当は、いやしないんだろう!」(42頁)と言ったそのとき、大時計が深夜零時をさし、「機械仕掛の鐘の音」が鳴り終えると同時にゼンマイがはじけて針がぴたりと停止する。
地下で落盤が起きたらしく、円柱も硝子も崩壊し、座席は人々とともに中心へと向かって雪崩落ちる。
巨大な裸足の脚が、一撃で大地を踏み割ったようなある〈音〉が中空に轟いて、がん、と反響した音がその瞬間凝結し、同時にすべてが静止した。(43頁)
それはすべての言葉を飛び越える言葉の一撃であり、詩的瞬間を表象していよう。円形の街、円形の時間、その全てが静止する詩的瞬間として、「舞踏」の、踊り子たちの一撃が描かれている。
歩行と舞踏のあいだで彷徨した『それから』や『第七官界彷徨』とは異なり、「夢の棲む街」はまっすぐに、いやぐるぐると舞踏し続け、ある瞬間に静止する。
*本文引用は、『山尾悠子作品集成』国書刊行会、2000年による。