人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

日文協2013年度大会(2日目)雑感

2013-11-23 12:46:55 | 学会レポ
こんにちは。
ここ数日ちょっと風邪気味で、もうだいぶん良くなってきたんですが、鼻がずびずびいってます。
この調子だと皮が剥けてしまいそう(くすん)。

11月17日(日)に、日文協2013年度大会(2日目)に行ってきたので、今日は感想を。
…結構忘れてしまってる部分もあるのですが。

読書日記:日文協2013年度大会関連

◎一人目の登壇者は、鈴木健さん。
「なめらかな社会と文学」
たいへん爽やかな方でした(『なめ敵』の著者近影よりは、若干丸くなられた感じも)。
お話はだいたい『なめらかな社会とその敵』をなぞるかたちで進んでいったのですが、特に文学と関連づけた部分は、パラレルワールドに関する部分かな。

鈴木さんは、
・生命にとって文学とは何か
と問いを立て、
・集団内で共通の"世界"を生きるための拡張現実の手法
と定義づけます。

拡張現実の手法としてパラレルワールドがあるわけですが、
①環境型パラレルワールド
②身体型パラレルワールド
③…何って言ったかな、ちょっとメモし損ねたの。現実のなかにオーバーレイしたパラレルワールド。
の3つに分け、

さらに、現実と虚構の関係を、
・口承・伝承の時代…現実/虚構は一体化
        ↓
・テクストの時代…現実/虚構の分離
        ↓
・AR(拡張現実)の時代…現実/虚構の再統合
と段階的に整理します。

最後に、個々が拡張現実を生きるためには物理的な制約があるので、
物理的なコンフリクトを回避する法システムや統治システムが必要、であることに触れましたが、
ここはまあ『なめ敵』のなかで詳しく述べてたことでした。


◎二人目は千田洋幸さん。近代の会員から。
「〈パラレルワールド〉を超えて―2010年代文化の世界構成」

前半はざあっと90年代から0年代の文化状況を整理した感じでしたね。
再帰的近代の必然から、「ここではないどこか」「もうひとつの世界」が欲望される、ということから、
パラレルワールドの話。
因みに再帰的近代というのは社会学の用語。
常に自分が何者か問われ続け、「本当の私とは何か」「私はなぜここにいる」という問いを問い続ける「再帰的自己」が出現する、と千田さんはまとめてます。
哲学・思想系だとポストモダンと言うんですけど、社会学的には近代は終わらないので、再帰的近代とか後期近代とか言ったりするんですね。

メインは2010年代の話かな。
〈パラレルワールド〉と化した自己/他者、こちら側の共同体/あちら側の共同体、現実/仮想現実…にどのような接続の回路があり得るか
ということで、AKB48のドキュメンタリー、『あまちゃん』、いとうせいこう『想像ラジオ』、和合亮一『詩の礫』をとりあげます。
結論としては、「二重性を生きる」とか、
「無時間性を(一つの)根拠とする乖離的主体としてのAKB48は、被災地に降り立つことによって、「声」と「互いの有限性」を分有する主体となる」あたりなのかな。

…個人的には、AKB万歳だったのがちょっと…
というか、相当違和感がありました。


◎ということはとりあえず置いといて、3人目の登壇者、助川幸逸郎さんの話に。
「女房という無意識―テクストに向こう側はあるのか」

『源氏物語』宇治十帖、浮舟が登場して以降の部分を取り上げて考察されました。
主に、「大内記」という登場人物と、浮舟と薫が「かたみ」に「あはれ」を感じる場面、
入水未遂の場面で浮舟の記憶がないことなどを取り上げての考察。
「大内記」というのは、匂宮側に近い人物なのですが、奥さんの親族に薫の従者もいて、それで薫側の情報を得たりする。公的な官位などでは知ることのできない、私的な、密かなつながりが物語を動かしてゆくことを指摘します。
浮舟と薫とが「かたみ」に「あはれ」と思う場面では、
浮舟は匂宮と逢瀬があったことを後ろめたく思って「あはれ」と思い、薫は大君を思って「あはれ」と思う、内容は共感されていないのに、まったく別々のことを思いながら気分が共有されていることを指摘します。
最後の場面で、浮舟の情報をみんながみんな断片的にしか知らなくて、浮舟が薫のことを拒絶する文脈が理解できない、そして肝心の浮舟にしても、入水未遂の時の場面、それから僧都に発見される場面でも、意識がない。
統一的な自己を形成することのできない物語なのだということを指摘します。
そしてそこに、現代的な意義がある、と。


◎質疑応答、どういう順番でどういうふうになされたのか、きちんと覚えてないので、印象に残ったものだけ。

震災に対して文学は無力なのか、無意味なのか、という質問に対して。
・鈴木さんは、文学(研究)には文学(研究)の意味があるんだろう、と。
開かれた研究で意味があるものもあるけど、閉じられたやり方でやることに意味がある研究もある、と言ってましたね。
で、なおかつそういう研究は、お金持ちのスポンサーを集めて研究す仕組みを作っていかなきゃいけない、と。
←これ、宇野常寛もたしか同じようなこと言ってたけど。千葉雅也と西田亮介といっしょにやってた、立命の若手研究者の行く末を考える、みたいなシンポで。宇野常寛が言ってたのは、クラウドファンディングみたいな話なんで、鈴木さんのイメージしてるのと違うかもしれないけど。
・千田さんは、無力で無意味だ、と。要するに近代文学は終わった…ってことなんですが。
よく考えてみると、近代は終わらない社会学の用語使いながら、文学に関しては近代文学は終わった、って、ポストモダンなんですね、ちょっと変な気が。
・助川さんはもうちょっと複雑な答えをしてた気がします。文学そのものと文学研究とは分けて考えないといけない。無力だと感じられることも多いけどでも…という感じ。

最後に一言づつというところで、
助川さんが統一的な自己を夢見ることもできない、カタストロフも来ない、ばらばらなまま、ちょっとずつ被曝するせかいでどうやって生きてゆくか、それでは寂しいんだ、ちょっとずつ寂しさを紛らわせるもの→というところから、鈴木さんのステップでもフラットでもないなめらかな社会モデルにつなげ、
千田さんは、統一的な自己を夢見ることができない人が寂しさを紛らわせるものとしてはポップカルチャーとかオタクカルチャー万歳、みたいなことを言っていたのですが。

…それってさ、『終わりなき日常を生きろ』と一緒じゃん、と思ってしまった。
それだったらわざわざ「なめらかな社会」モデルじゃなくても。地下鉄サリン事件の後くらいに指摘されていることであって。
あれだけの震災があって、原発事故があってもまだ『終わりなき日常」なんすか、という…。確かにどうもこの社会はそういう流れになっている気はしますけど。

鈴木さんは生物学的時間のスパンで、たいへんに希望に満ちたことをおっしゃっていました。10年でも20年でも100年でも1000年でも同じことをやり続けていたらいい…と。
その割に懇親会の挨拶では、この「一週間くらい」、「文学ってなんだろうな」と考えて、大変幸せな時間を過ごしました、とおっしゃってたんですが(笑)。はい、大変にさわやかな感じでしたよ。

AKB万歳に対する違和感についても書こうと思っていたのですが、
ちょっと長くなりそうなので、また日を改めて書きたいと思います。
適当なブログの文章とはいえ、まとめて書くのはちょっとしんどい。

では。

 
新宿にて。ひとの顔の消し方が適当なのはどうかご勘弁を。







最新の画像もっと見る