人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

追記―2012年度センター試験国語

2013-03-03 15:09:51 | 国語教育と文学
 後から気づいたんですけど、石原千秋は小林秀雄の問題ほうにケチつけてるようですね(http://sankei.jp.msn.com/life/news/130218/art13021807590000-n1.htm)。
 確かに、石原が言うように「評論」とはこういうものだと思って真似をしたらいけないという面はある。小論文でも書かせてみたら、その手の勘違いをしている受験生は結構多いことが分かります。
 ただ私は、評論問題は論理的な思考ができるかどうかを見るものとは考えてないんですよね。何が書かれているか理解できるか。自分の考えに影響されたり、自分の考えと混同したりすることなく、何が書かれているか理解できたらそれで充分だと思っています。大学に入ってレポートや論文を書く上では絶対必要ですから。他人の考えを間違って要約したら失礼です。
 確かに論理的に思考する能力は必要ですが、論理的な文章を読んだところで論理的に思考できるとは限りませんし、論理的な思考能力を見たいんだったら、やっぱり書かせないと…。
 「鍔」に関しては、「鍔とは何か」さえ問えていたら、それでO.K.だと、私は思います。

 ついでに言っておくと、単純に言語的な論理能力を高めるためだったら、評論より小説のほうが向いてると思うんですよね。評論の場合、どうしても現実との関係が出てきますから、書かれている内容に事実誤認があればいくらその文章のなかで論理的な辻褄が合っていても、それが正解だとは言いがたい。でも、小説の場合完全に言葉でできた世界なので、言葉の論理で正しいことが正しい。例えば「空から豚が降ってきた」とあれば、その小説世界のなかでは空から豚が降ってきたんだと思うしかない。だから純粋に言葉によって構築された世界を読み解いてゆく作業になると思うわけです。
 一方で評論は、言葉と世界、言葉と社会、言葉と自然現象、言葉と自分との関係などを理解させるための手段…、かな。誰かの心情だの考えだのを読み取らせるんだったら、評論のほうがいいと思うんだけど。だって、書いてるんだから。

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