99歳の大学生、
通学2時間かけ国際政治史の勉強に励む
2013年1月14日(月)19:01
(産経新聞)
大阪府和泉市にある桃山学院大学。
その教室で、10代、20代の若い学生たちに交じり、
深い年輪のしわが刻まれた顔で、まっすぐ前を見つめる老人がいる。
ピンと背筋を伸ばし、講義に集中する姿は、かえって若々しくも感じられる。
この人は、大阪市東成区の自宅から同大学に通う村川信勝さん。
なんと現在、99歳の聴講生だ。(中井美樹)

◆最前列の真ん中が“指定席”
大学では、国際政治史や国際法の講義を受講しており、
週に2回、電車やバスを乗り継いで、
片道2時間近くかけて通っている。
教室では、最前列の真ん中が、いつもの席だ。
リュックの中から、小さな座布団を取り出し、
いすに置いて着席。
細かい文字を読むためのルーペやノートを準備して、
授業の始まりを待つ。
講義の時間は約90分間。
その間、常に集中する姿は崩れることはない。
講師らの声にじっと耳を傾けメモをとり、
板書についても一文字も漏らさないように書き写す。
授業用のノートのほかに、
家には清書用のノートがある。
「分からない言葉は当て字で書いておいて、家で清書しながら調べる」
まさに、受験生も“顔負け”の向学心だ。
◆家計が許さなかった勉強への思い
「勉強したい」という思いは、少年のころから抱き続けていた。
しかし、尋常小学校を卒業後、すぐに働きに出ざるを得なかった。
「中学に上がって勉強したい」という願いは、家計が許さなかった。
戦前だった当時、村川さんの周囲も含めて
「みんな貧乏な時代やった」という。
「わしはよくても、成績のよいやつはかわいそうでな。一緒に泣いたこともあった」
夜間学校なら進学させもらえるだろうか-と独学で勉強し、
商業学校の編入試験に合格したが、父親は認めてくれなかった。
そして、太平洋戦争では、ビルマ戦線に衛生兵として送られた。
敗走中に砲弾を受け、数え切れないほどの仲間の死も目の当たりにした。
さらに、戦場は飢えとの戦いであったとも。
「オタマジャクシも、ヘビでも、なんでも食べた」。
餓死した仲間も多かったという。
「なんで自分が生き残れたのか分からない」。
そう思うほど壮絶だった。
帰国後は、紳士服の縫製工場で勤め、
退職後も技術指導などを続けていたが85歳でリタイア。
93歳のときに同大学の聴講生になり、
子供の頃からの「勉強したい」という夢を、ついに実現させた。
きっかけは、大阪府庁でたまたま見かけた桃山学院大学の聴講生のパンフレット。
「大学生と一緒に勉強ができるんか」。
胸が躍った。
◆大学通いの支えは、尽きない好奇心
これまで、日本史や世界史、国際法などを受講。
これらを学んできた理由としては、
自らが体験したあの戦争がなぜ起こったのか-
その背景を明らかにしたいとの思いがあるからだ。
そして、勉強を重ねるごとに、国際的な対立は、
戦争ではなく、外交的努力で回避すべきだとの思いが募っている。
「大阪・梅田の地下街でも、
今はみんなきれいな格好して歩いているけど、
戦争が終わったとき、子供らは真っ黒の顔をして地面にへたり込んでいた。
それを見たら、戦争みたいなもんは、絶対アカンと思うわな」
一方で、自身の大学通いを支えているのは、
尽きることのない好奇心だとも。
そのひとつとして、英会話の講座にも挑戦したという。
「最近は、広告も英語で書いてあって、
何を書いてるか分からない。
勉強したので、今は字引があれば、だいたい分かるようになった」
平成10年に妻を亡くしてからは、一人暮らし。
子や孫もいるが、「一人のほうが気楽でええ」。
料理も自分でする。
「失敗することもあるけど、まあ戦地のこと思ったらなんでもおいしく食べられる」と笑う。
大学の講義がない日には、趣味のカメラを楽しむ。
この冬は、大阪湾に沈む夕日を狙うつもりだ。
そんな村川さんだが、12月で100歳になる。
「103でも、105になっても聴講生は続けたい。
世の中にはいろんな知らないことがあるもんな」
■村川 信勝(むらかわ・のぶかつ)
大正2年12月生まれ。
平成19年から、桃山学院大学で社会人聴講生として在籍。
同大学の社会人聴講制度では、
正課授業の一部で聴講を受け入れているほか、
社会人向け科目が開講されており、24年度は約500人が在籍している。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/snk20130114535.htmlより
氏の向学心、頭が下がる思いだ。
それにしても担当教員は、‘やりにくい’ だろう。
通学2時間かけ国際政治史の勉強に励む
2013年1月14日(月)19:01
(産経新聞)
大阪府和泉市にある桃山学院大学。
その教室で、10代、20代の若い学生たちに交じり、
深い年輪のしわが刻まれた顔で、まっすぐ前を見つめる老人がいる。
ピンと背筋を伸ばし、講義に集中する姿は、かえって若々しくも感じられる。
この人は、大阪市東成区の自宅から同大学に通う村川信勝さん。
なんと現在、99歳の聴講生だ。(中井美樹)

◆最前列の真ん中が“指定席”
大学では、国際政治史や国際法の講義を受講しており、
週に2回、電車やバスを乗り継いで、
片道2時間近くかけて通っている。
教室では、最前列の真ん中が、いつもの席だ。
リュックの中から、小さな座布団を取り出し、
いすに置いて着席。
細かい文字を読むためのルーペやノートを準備して、
授業の始まりを待つ。
講義の時間は約90分間。
その間、常に集中する姿は崩れることはない。
講師らの声にじっと耳を傾けメモをとり、
板書についても一文字も漏らさないように書き写す。
授業用のノートのほかに、
家には清書用のノートがある。
「分からない言葉は当て字で書いておいて、家で清書しながら調べる」
まさに、受験生も“顔負け”の向学心だ。
◆家計が許さなかった勉強への思い
「勉強したい」という思いは、少年のころから抱き続けていた。
しかし、尋常小学校を卒業後、すぐに働きに出ざるを得なかった。
「中学に上がって勉強したい」という願いは、家計が許さなかった。
戦前だった当時、村川さんの周囲も含めて
「みんな貧乏な時代やった」という。
「わしはよくても、成績のよいやつはかわいそうでな。一緒に泣いたこともあった」
夜間学校なら進学させもらえるだろうか-と独学で勉強し、
商業学校の編入試験に合格したが、父親は認めてくれなかった。
そして、太平洋戦争では、ビルマ戦線に衛生兵として送られた。
敗走中に砲弾を受け、数え切れないほどの仲間の死も目の当たりにした。
さらに、戦場は飢えとの戦いであったとも。
「オタマジャクシも、ヘビでも、なんでも食べた」。
餓死した仲間も多かったという。
「なんで自分が生き残れたのか分からない」。
そう思うほど壮絶だった。
帰国後は、紳士服の縫製工場で勤め、
退職後も技術指導などを続けていたが85歳でリタイア。
93歳のときに同大学の聴講生になり、
子供の頃からの「勉強したい」という夢を、ついに実現させた。
きっかけは、大阪府庁でたまたま見かけた桃山学院大学の聴講生のパンフレット。
「大学生と一緒に勉強ができるんか」。
胸が躍った。
◆大学通いの支えは、尽きない好奇心
これまで、日本史や世界史、国際法などを受講。
これらを学んできた理由としては、
自らが体験したあの戦争がなぜ起こったのか-
その背景を明らかにしたいとの思いがあるからだ。
そして、勉強を重ねるごとに、国際的な対立は、
戦争ではなく、外交的努力で回避すべきだとの思いが募っている。
「大阪・梅田の地下街でも、
今はみんなきれいな格好して歩いているけど、
戦争が終わったとき、子供らは真っ黒の顔をして地面にへたり込んでいた。
それを見たら、戦争みたいなもんは、絶対アカンと思うわな」
一方で、自身の大学通いを支えているのは、
尽きることのない好奇心だとも。
そのひとつとして、英会話の講座にも挑戦したという。
「最近は、広告も英語で書いてあって、
何を書いてるか分からない。
勉強したので、今は字引があれば、だいたい分かるようになった」
平成10年に妻を亡くしてからは、一人暮らし。
子や孫もいるが、「一人のほうが気楽でええ」。
料理も自分でする。
「失敗することもあるけど、まあ戦地のこと思ったらなんでもおいしく食べられる」と笑う。
大学の講義がない日には、趣味のカメラを楽しむ。
この冬は、大阪湾に沈む夕日を狙うつもりだ。
そんな村川さんだが、12月で100歳になる。
「103でも、105になっても聴講生は続けたい。
世の中にはいろんな知らないことがあるもんな」
■村川 信勝(むらかわ・のぶかつ)
大正2年12月生まれ。
平成19年から、桃山学院大学で社会人聴講生として在籍。
同大学の社会人聴講制度では、
正課授業の一部で聴講を受け入れているほか、
社会人向け科目が開講されており、24年度は約500人が在籍している。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/snk20130114535.htmlより
氏の向学心、頭が下がる思いだ。
それにしても担当教員は、‘やりにくい’ だろう。