仕事とは「望むべきことを彫刻していく営み」
村山 昇
2013年1月17日(木)11:45
働く目的が「欲する物の獲得」に向うのか、
「望むべきことの発見・創造」に向かうのか───
私たちの心の中は、この2つの複雑微妙な混合である。
働く意識が成熟化するにしたがって……。
「私たちは仕事によって、望むものを手に入れるのではなく、
仕事をしていくなかで、何を望むべきかを学んでいく」。
───ジョシュア・ハルバースタム
『仕事と幸福そして人生について』
私が研修の中でよくやるディスカッションテーマの1つが───
「お金を得ることは、働くこと(仕事)の目的か?」である。
ありふれたテーマのようだが、実際、
このことについてしっかりと討論をする機会は日常ほとんどないように思う。
だから、研修でじっくり時間をとってグループでやってみると、
実に熱くなるし、さまざまな考え方が出るので面白い。
各グループに結論を発表させるのだが、
おおかた、グループで統一の見解は形成されず、
「こんな意見も出ましたが、一方でこんな意見もあり、なかなかまとまらず……」
のような発表になる。
いや、それでいいのだ。
このテーマについて、もしすんなり統一見解が出せるようなら、
この人間社会はそれだけ薄っぺらなものだという証拠になってしまう。
金に対する意識や欲の度合いが人により千差万別だからこそ、
この人間社会は複雑で奥が深いとも言える。
だからこの問いに唯一無二の正解はない。
講師である私ができることは、古今東西、
人は労働とお金(金銭的報酬)、
あるいは金欲についてどう考えてきたかを、
偉人や賢人たちの言葉を紹介しながら、
個々の受講者が自分にもっとも腹落ちする答えを見つけてもらうことだ。
各自が「きょうからもっと働こう」「もっと稼ごう」と思える解釈を引き出せたなら、
このディスカッションは成功だ。
私が引用する偉人・賢人たちの言葉はさまざまあるが、
その1つが冒頭に掲げたハルバースタムのものである。
米・コロンビア大学で哲学の教鞭を執る人物だけあって、
実に味わい深い表現だと思う。
ここには2つの仕事観が描かれている。
1番目は「望むものを手に入れる」ことが目的化した働き方だ。
この目的は、必然的にお金を多く得たいという欲望と直接結びついている。
「働くこと」はその手段として置かれる。
2番目の仕事観は、「何を望むかを学んでいく」ことが目的となっている。
このとき、学んでいくプロセスはまさに「働くこと」そのものに内在しているので、
「働くこと」は手段ともなり目的ともなる。
そのプロセスに没頭して面白がる、気がつくと、お金がもらえていた。
それがこの仕事観の特徴だ。
私自身、最初メーカーに就職し、次に出版社に転職をした。
メーカーにいるころは、ヒット商品を出すことに熱中し仕事に励んだ。
出版社に移ってからは、よい記事を書き、
よい雑誌をつくることに専念した。
多忙でストレスもあり、きつい仕事でもあったが、
面白がれる仕事をして給料がもらえるなら幸せなことだといつも思っていた。
ただ、20代から30代半ばまでは、
自分が望むべきこと、つまり夢や志、
働く大きな意味のようなものはなかなか見つけられなかった。
いろいろ見えてきはじめたのは30代の終わりころ。
いくつかの出来事が重なり、
「自分が望むべき道は教育の分野である」
との内側からの声がしっかり聞こえてきた
(それはいま振り返ると、必然の出来事だったように思う)。
2番目の意識に立つ人にとって、働くことは、
いわば「自分が何を望むべきか」を“彫刻する営み”となってくる。
日々の大小の仕事は一刀一刀彫っていく作業である。
最初は自分でも何を彫っているのかはわからない。
しかし、5年10年と経っていくうちに、じょじょに自分の彫るべきものが見えてくる。
途中まで何となくAを彫っていたつもりだったが、途中からBに変えたということが起こってもいい。
ミケランジェロは、石の塊を前に、
最初から彫るべきものの姿を完全に頭に描いたわけではない。
一刀一刀を石に入れながら、イメージを探していくのだ。
彫ろうとするものを知るには、彫り続けねばならない。
そして彫りあがってみて、
結果的に「あぁ、自分が彫りたかったものはこれだったのか」と確かめることができる。
研修でのディスカッションを聞いていて気づくことは、
いまの仕事がつまらない、やらされ感がある、労役的であると思っている人は、
1番目の「仕事観X」に傾く。
仕事は我慢であり、ストレスであり、
その憂さ晴らしにせめて何かいい物を買いたい、
何か楽しい余暇を過ごしたい。
そのためにはお金が要る。
そういった心理回路だ。
人生の喜びの見出し先は働くことにはなく、
お金を交換して得られる物や余暇に向いている。
逆に、仕事自体が面白い、
仕事を通して何か社会に貢献していきたいというような想いを持っている人は、
2番目の「仕事観Y」に近さを感じる。
もちろん若い社員たちは十分に高い年収を得ているわけではないから、
経済的に裕福とはいえない。
ローンや子どもを抱えていればなおさらだ。
しかし、そんななかでも、仕事観Yを強く抱いている人は意外に多い。
ただ、自分の「望むべきこと」(=夢や志、意味的なもの)が
すぐに見えてこないことに焦りや不安を感じるのだ。
仕事観Xのもとでは、お金さえ用意すれば、
望む物と即座に交換でき満足が得られることとは対照的である。
「仕事観X」と「仕事観Y」とを比べて、
どちらが良い悪いということではない。
誰しもこの両方を持ち合わせている。
その強さの割合が個人によって異なり、人生のときどきの状況によって変化するだけだ。
ただ、働く意識の成熟化という観点で言えば、
仕事観Xから仕事観Yに移行するのが成熟化の流れなのだろう。
エイブラハム・マズローの概念を借りれば、
「生存欲求」から「自己実現欲求」への移行だ。
平成ニッポンの世に生まれ合わせた私たちにとって、
仕事観Xにどっぷり浸かって生涯を終えるのはなんとも残念だと思う。
仕事観Yのもと、自分の望むことが何かを彫刻していく喜びをしっかりと味わいたいものだ。
ただし、喜びとはいえ、それは真剣な戦いでもある。
村山 昇
2013年1月17日(木)11:45
働く目的が「欲する物の獲得」に向うのか、
「望むべきことの発見・創造」に向かうのか───
私たちの心の中は、この2つの複雑微妙な混合である。
働く意識が成熟化するにしたがって……。
「私たちは仕事によって、望むものを手に入れるのではなく、
仕事をしていくなかで、何を望むべきかを学んでいく」。
───ジョシュア・ハルバースタム
『仕事と幸福そして人生について』
私が研修の中でよくやるディスカッションテーマの1つが───
「お金を得ることは、働くこと(仕事)の目的か?」である。
ありふれたテーマのようだが、実際、
このことについてしっかりと討論をする機会は日常ほとんどないように思う。
だから、研修でじっくり時間をとってグループでやってみると、
実に熱くなるし、さまざまな考え方が出るので面白い。
各グループに結論を発表させるのだが、
おおかた、グループで統一の見解は形成されず、
「こんな意見も出ましたが、一方でこんな意見もあり、なかなかまとまらず……」
のような発表になる。
いや、それでいいのだ。
このテーマについて、もしすんなり統一見解が出せるようなら、
この人間社会はそれだけ薄っぺらなものだという証拠になってしまう。
金に対する意識や欲の度合いが人により千差万別だからこそ、
この人間社会は複雑で奥が深いとも言える。
だからこの問いに唯一無二の正解はない。
講師である私ができることは、古今東西、
人は労働とお金(金銭的報酬)、
あるいは金欲についてどう考えてきたかを、
偉人や賢人たちの言葉を紹介しながら、
個々の受講者が自分にもっとも腹落ちする答えを見つけてもらうことだ。
各自が「きょうからもっと働こう」「もっと稼ごう」と思える解釈を引き出せたなら、
このディスカッションは成功だ。
私が引用する偉人・賢人たちの言葉はさまざまあるが、
その1つが冒頭に掲げたハルバースタムのものである。
米・コロンビア大学で哲学の教鞭を執る人物だけあって、
実に味わい深い表現だと思う。
ここには2つの仕事観が描かれている。
1番目は「望むものを手に入れる」ことが目的化した働き方だ。
この目的は、必然的にお金を多く得たいという欲望と直接結びついている。
「働くこと」はその手段として置かれる。
2番目の仕事観は、「何を望むかを学んでいく」ことが目的となっている。
このとき、学んでいくプロセスはまさに「働くこと」そのものに内在しているので、
「働くこと」は手段ともなり目的ともなる。
そのプロセスに没頭して面白がる、気がつくと、お金がもらえていた。
それがこの仕事観の特徴だ。
私自身、最初メーカーに就職し、次に出版社に転職をした。
メーカーにいるころは、ヒット商品を出すことに熱中し仕事に励んだ。
出版社に移ってからは、よい記事を書き、
よい雑誌をつくることに専念した。
多忙でストレスもあり、きつい仕事でもあったが、
面白がれる仕事をして給料がもらえるなら幸せなことだといつも思っていた。
ただ、20代から30代半ばまでは、
自分が望むべきこと、つまり夢や志、
働く大きな意味のようなものはなかなか見つけられなかった。
いろいろ見えてきはじめたのは30代の終わりころ。
いくつかの出来事が重なり、
「自分が望むべき道は教育の分野である」
との内側からの声がしっかり聞こえてきた
(それはいま振り返ると、必然の出来事だったように思う)。
2番目の意識に立つ人にとって、働くことは、
いわば「自分が何を望むべきか」を“彫刻する営み”となってくる。
日々の大小の仕事は一刀一刀彫っていく作業である。
最初は自分でも何を彫っているのかはわからない。
しかし、5年10年と経っていくうちに、じょじょに自分の彫るべきものが見えてくる。
途中まで何となくAを彫っていたつもりだったが、途中からBに変えたということが起こってもいい。
ミケランジェロは、石の塊を前に、
最初から彫るべきものの姿を完全に頭に描いたわけではない。
一刀一刀を石に入れながら、イメージを探していくのだ。
彫ろうとするものを知るには、彫り続けねばならない。
そして彫りあがってみて、
結果的に「あぁ、自分が彫りたかったものはこれだったのか」と確かめることができる。
研修でのディスカッションを聞いていて気づくことは、
いまの仕事がつまらない、やらされ感がある、労役的であると思っている人は、
1番目の「仕事観X」に傾く。
仕事は我慢であり、ストレスであり、
その憂さ晴らしにせめて何かいい物を買いたい、
何か楽しい余暇を過ごしたい。
そのためにはお金が要る。
そういった心理回路だ。
人生の喜びの見出し先は働くことにはなく、
お金を交換して得られる物や余暇に向いている。
逆に、仕事自体が面白い、
仕事を通して何か社会に貢献していきたいというような想いを持っている人は、
2番目の「仕事観Y」に近さを感じる。
もちろん若い社員たちは十分に高い年収を得ているわけではないから、
経済的に裕福とはいえない。
ローンや子どもを抱えていればなおさらだ。
しかし、そんななかでも、仕事観Yを強く抱いている人は意外に多い。
ただ、自分の「望むべきこと」(=夢や志、意味的なもの)が
すぐに見えてこないことに焦りや不安を感じるのだ。
仕事観Xのもとでは、お金さえ用意すれば、
望む物と即座に交換でき満足が得られることとは対照的である。
「仕事観X」と「仕事観Y」とを比べて、
どちらが良い悪いということではない。
誰しもこの両方を持ち合わせている。
その強さの割合が個人によって異なり、人生のときどきの状況によって変化するだけだ。
ただ、働く意識の成熟化という観点で言えば、
仕事観Xから仕事観Yに移行するのが成熟化の流れなのだろう。
エイブラハム・マズローの概念を借りれば、
「生存欲求」から「自己実現欲求」への移行だ。
平成ニッポンの世に生まれ合わせた私たちにとって、
仕事観Xにどっぷり浸かって生涯を終えるのはなんとも残念だと思う。
仕事観Yのもと、自分の望むことが何かを彫刻していく喜びをしっかりと味わいたいものだ。
ただし、喜びとはいえ、それは真剣な戦いでもある。