松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆熟議の市長選挙⑤穂積市長はなぜ提案したのか(1)(三浦半島)

2017-07-10 | 1.研究活動
 今回の公開政策討論会は、穂積さんの逆提案から進んだ話であるが、突然、急に出た話ではない。私のブログを見ても、2012年12月30日、今から4年半前に、この関連記事が出ている。ここに再掲しておこう。
 穂積さんとすると、「こんな選挙をやっていてはダメだな」という長年の思いが、ようやく具体化したということだろう。
 
【私のブログから 2012年12月30日】
 新城市穂積市長さんが、熟議の民主主義に関連して、「熟議の選挙」という提案をしている。問題意識そのものも興味深いが、現職市長として、いくつかの選挙に関わってきた実感というのもまた面白い。

 さらに私自身の「危機感」は、民主政治の最大イベントたる選挙のあり方に対しても向けられている。
 私はこの地で自身の選挙を4回経験し、国政・地方多種多数の選挙にも何らかのかかわりを持ってきたが、自戒をこめて「こんな選挙をやっていてはダメだな」とつくづく思っている。
 今日のテーマに即していえば、そこには「熟議」のプロセスが欠落しており、それぞれが自陣営の囲い込みと自己過熱を競い合って、そこに注ぎ込まれたエネルギーの総量に応じて勝敗を決する構造になっている。
 投票率が50%とすれば、他の50%はその熱の圏外にいて冷やかにこれを見ている。
 最近は公示・告示前の「候補者討論会」が当たり前のものになってきて、選択における貴重な判断材料を提供するようになってきたとはいえ、いざ本選が始まってしまえば、陣営内部の運動に没頭する以外になくなってしまうのが実情だ。
 (山の舟歌・新城市長ブログ 2012年12月27日「熟議の民主主義」)

 フランス革命後、国民国家ができて以来、その後を追って、各国が国民国家をつくっていく。国民国家は、自陣営への囲い込みと自己過熱を根幹とする仕組みであるが、それゆえ、国民国家は戦争に強い。その結果、戦争の質が変わり、私たちは2つの世界大戦を経験することになる。
 自信と過信、その裏側にある不満や不信を、この囲い込みと自己過熱で乗り切ろうという動きが、私たちの周りの国々で顕著になってきた。これに対して、わが日本も同じ方向に進む機運がある。

 そういう環境だからこそ、自ら考え、他者を尊重し、まちのことをわがことのように思うという民主主義の大事さが、あらためて注目される。地方自治は民主主義の学校とはよく言ったものである。この学校で、市民一人ひとりが、きちんと学ぶ機会をつくっていくのが、選挙によってえらばれた選良の役割である。ところが、そのように選ばれる仕組みになっていないというのが、穂積さんの危機感なのだろう。

 以上、私のブログから。

 選挙の現場にいる人の臨場感というか、危機意識がよくわかる。また、今読み返してみると、すでにこの時期に、トランプ大統領のアメリカファーストはじめ、自国優先の保護主義的な動きが出ていたというのも興味深い。
 参考までに、穂積さんのブログの全文を掲げておこう。

【山の舟歌・新城市長ブログ 2012年12月27日「熟議の民主主義」)】(全文)

 2012年12月27日「熟議の民主主義」

 今年になってマスメディアにも時折登場するようになった言葉に、「熟議型民主主義」とか「討論型世論調査」とかがある。
 一部では数年前から取り上げらるようになっていたが、今年は前政権が「原発依存率」に関する世論集約に討論方式を導入したことで広く知られるようになった。

 何らかのテーマに関する意見や態度を調査する手法は、ギャラップ以来もう十分に成熟して確立されているけれど、それは大体において1回ごとに個々の反応を集計する方法をとっている。原発に賛成ですか、反対ですか、というような形ですね。
 これに対して「討論型」は、テーマに関する資料や専門家の知見、賛否の論点などを参加者に示しながら、場合によっては参加者同士が意見を交わすなどを重ねた上で、意見の分布や変化も踏まえた集計を行う。
 
 世論動向が「民意」として把握され、それが政治の意思決定に直接かつ多大の影響をもつ時代にわれわれは生きている。熟議型(討論型)はその「世論」の質性を問題とし、熟考を経た意見形成をより重んじようとするものだろう。

 「甲論乙駁」という言葉あるが、熟議型は甲論と乙論との対立点を理解し、自分はそのどちらを選ぶかを決めるだけでは成立せず、甲論と乙論とが相手の論点を踏まえてより深まる過程に参加し、自らの思考自身を見つめ直した上で一定の選択判断を行うことで成り立っていく。
 このような意味で、熟議を経た「民意」を表す方法が確立されれば、それは集団的意思決定の重要な指標となるに違いない。

 一昨日のブログで、本市自治基本条例への松下啓一教授のコメントを紹介したが、その中に次のような指摘があった(12月25日付『自治基本条例へのコメント』)。

 ここの条例の特色は、地域自治区とセットになっていることである。持続可能なまちをつくっていくには、従来の行政依存だけではだめで、市民自身が自ら考え、行動する足場と仕組みをつくらなければという発想から、この条例は検討されてきた。

 地方自治法では空白となっている地域組織に手を付けるのは勇気がいるが、今回はそれをきちんと条例で位置付け、困った時は、みんなの問題として考えようという「市民まちづくり集会」もつくられている。熟議の民主主義をやらないと、まちがダメになってしまうという危機感の表れだと思う。

 ―「熟議の民主主義」の本質を言い表しているだろう。
 常設型の住民投票制度を定めると同時に、「市民まちづくり集会」(=決定はしないが熟議をする市民総会、という風に読み替えることもできるだろう)の定例開催を市に義務づけたことは、新城市自治基本条例の大きな一歩だ。

 さらに私自身の「危機感」は、民主政治の最大イベントたる選挙のあり方に対しても向けられている。
 私はこの地で自身の選挙を4回経験し、国政・地方多種多数の選挙にも何らかのかかわりを持ってきたが、自戒をこめて「こんな選挙をやっていてはダメだな」とつくづく思っている。

 今日のテーマに即していえば、そこには「熟議」のプロセスが欠落しており、それぞれが自陣営の囲い込みと自己過熱を競い合って、そこに注ぎ込まれたエネルギーの総量に応じて勝敗を決する構造になっている。
 投票率が50%とすれば、他の50%はその熱の圏外にいて冷やかにこれを見ている。

 最近は公示・告示前の「候補者討論会」が当たり前のものになってきて、選択における貴重な判断材料を提供するようになってきたとはいえ、いざ本選が始まってしまえば、陣営内部の運動に没頭する以外になくなってしまうのが実情だ。

 去年の2月に日本語訳が発刊されて評判となった『リンカン』(ドリス・カーンズ・グッドウィン著 平岡緑訳 中央公論社)を読むと、リンカン時代の選挙運動が詳述されていて興味深い。そこにこんな選挙演説会の模様が書かれていた(該当ページをすぐに探し出せないので、大概のことと理解してください)。

 A、Bと2人の候補者がいるとして、1回の演説会での各人の持ち時間を決め、たとえば1人45分とした場合。

 最初にAが15分間スピーチをする、次にBがそれへの反論も含めて30分話し、その次にAがまとめも含めて30分話し、最後にBが15分間話す。
 次の演説会では、この順番を逆にして続けていくのだ。
 この方式をとれば相手の論点を踏まえた自論の展開が求められるだろうし、場合によっては自論の深化や修正さえなされるかもしれない。それは社会全体からみれば政策の広さと深さが増すことにつながるので、大きな利益となるし、この討論を経ることで有権者は、それぞれの候補者の思考方法や人間性までをもより正確に知ることができるようになるだろう。

 このようなやり方は、候補者同士が合意し、フェアルールを決めれば、現在の公選法のもとでも、たとえば個人演説会を合同開催するなどの工夫で十分にできるはずだと思う。
 「熟議の民主主義」のためには、「熟議の選挙」が不可欠なのではないだろうか。

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