行政コストのカットの次は、民主主義のコストのカットがやってくるだろう。
たしかに情報公開制度の運用ではずいぶんとひどいケースもあるようだ。
情報公開制度は、すっかり標準装備になったが、それにともなって、その弊害もめだってきた。総務省の調査では、行政の停滞を狙った請求、担当者を困らせるための請求、超大量の請求など、驚くようなものが報告されている。
こんなケースもあるようだ。札幌市教育委員会に対する請求で、まともに答えると、文書保存箱に換算して「約500箱、当該文書を積み上げた場合の厚さは、単純に計算すると約150メートル、請求処理に必要な作業量は、延べ600人を超える学校職員を動員、費用は諸経費を含めて処分庁総体で約1,450万円を超えるもの」もあるようだ。しかも、たくさんのコストを掛けて用意しても、結局、取りにこないという事例もある。これでは税金の無駄遣いの最たるモノである。
こうした事態に対応して、最近では、権利の濫用になるような請求は、拒否できるという規定を置く自治体も増えてきた(富山市など)。これを過剰反応だという議論もあるが、財政状況が厳しく、市民の暮らしに関わるものもカットせざるを得ない状況の中では、納税者の率直な気持ちとしては、こんなことに貴重な税金を使ってもらいたくないと思うのも普通だろう。
行政コストのカットは、ほとんど無駄と言えるものがないところまで切り込んできた。サラリーマンの家庭のやりくりのような地方財政では、出るをカットするしかない。今まであった行政サービス、自分たちにとって大事だと思っていたサービスをカットされ始めた市民が向かう先は、おそらく次は、民主主義のコストだろう。民主主義の仕組み一つひとつが、費用対効果の面から、その優先度がチェックされていくことになる。住民投票も、私が力を入れている熟議の市民参加もその洗礼を免れないだろう。
情報公開で言えば、利用しているのは誰か(多くが商業利用とされている)、どのように使われたか(民主主義にとってどれだけ有用であったか)等が検証されていくのだろう。難しい時代といえるが、地方自治は、財政面から、確実にそこまで追い詰められていく。やはり、こうした中で問われているのは、民主主義の使い手である私たちということなのだろう。
(メモとして)
・民主主義のあるべき論だけでは、厳しい現実という流れにはとても抗しきれないだろう。地方自治においても民主主義の黒字をきちんと考えていくべきだろう。
・エドマンド・バーク風に、頭のなかで合理的に考えた制度設計は、必ずしも私たちを幸せにするわけではなく、逆に長い間の風雪に耐えて続いてきたものこそが、結局、私たちを幸せにしていくと考えるのも、ヒントになるだろう。要するに、新規な仕組みもいいが、元からある仕組みも大事にしていくということだろう。
・熟議の市民参加でポイントになるのは、支配と被支配の交代だろう。アリストテレスは、この「支配しかつ支配される能力」を「善き市民の徳」と規定するが、支配と被支配の交替が、民主政を衆愚や専制に陥らせないカギではないか。