松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆原案賛成の市民は住民投票に行くのか

2022-08-20 | 1.研究活動
 自治体学会で興味深い報告があった。
 
 早稲田大学の博士課程の福地健治さんの研究で、「 住民はなぜ投票に行かなかったのか?―石川県輪島市の事例をもとに自治体における住民投票条例の在り方を考える」であった。

 輪島市で、産廃施設の建設をめぐる住民投票があった。ただ、50%条項があるので、結局は開票されずにおわっている。福地さんの問題意識は、50%条項は、ボイコット運動を誘発し、民意を歪めるというものである。

 実際、輪島市では、ボイコット運動も行われ、それにもかかわらず、投票に行くのは、地方のまちでは、ある種のハードルになることは確かだろう。

 他面、50%条項がなく、たとえば30%や40%の投票率で開票し、それが民意ということで、政策が決定されるとしたら、それは正しい民意になるのというのが私の問題意識である。

 仮説は、投票に行く人は、産廃施設で言えば、反対の意思を持つ人がメインで、「賛成」という人は、投票に行かないのではないかというものである。あるいは、「役所に任せた」、「よくわからない」という人も、投票に行かないだろうというのが、私の仮説である。住民投票制度は、そうした内在的な限界を持っているというのが、私の問題意識である。

 これはある意味、よく理解できるだろう。わざわざ、投票に行くのである。面倒くさいということもあるし、時間も取られる。それを振り切って行くのは、それなりの動機、意識があるからではないだろうか。

 以前書いたことがあるが、小平市の住民投票で、これも50%条項で、開票されなかったが、「せっかくの機会に、意思表明しない奴は、相手にする必要がない」という意見があった。何と不遜な、エリート意識丸出しだと思う。こんなことを言うのは、はっきりいって嫌な奴である。

 世の中には、意思を十分に表明できない人は、山ほどいる。認知症有病者は高齢者に限っても600万人、高齢者の6人に1人は、認知症である。子どもたちは、住民投票のテーマについて、十分に判断、意思表明ができないだろう。十分な判断ができない障がい者もたくさんいる。仮に、理解力があっても、仕事を休めず、投票に行けない人だって、山ほどいる。こうしたさまざまの(うまく意思を表せない)市民の思いをくみ取るのが、間接民主主義である。直接民主主義が地方自治の基本だという説明もあったが、これを適切に行使できるのは、アテネのような、奴隷に生活を支えられている市民のみではないのか。

 福地さんの調査は、住民投票2年後に、市議会選挙の際に、住民にアンケートをしたものである。出口調査のようなものであろうか。なるほど、こういう方法がある。

 その結果は、画面の通りである。


 注目すべきは、「賛成だから」投票に行かなかったが、28%もある。賛成の方は、原案賛成なのだから、わざわざ、投票に出向く、動機付けが弱い。その証左といえよう。しかも、28%もいる。福地さんは、50条項が影響している可能性を指摘しているが、たしかに、そういう人もいるかもしれないが、そもそも(50%条項がなくても)投票に行かないのではないか。
 
 他方、この調査では、「反対だから」投票に行かないは、選択肢にない(?)。なぜだろう。設計段階で、反対だから投票に行かないというのは、想定していないということなのだろうか。反対の人は投票に行き、賛成の人は投票に行かないのだという前提だとしたら、住民投票制度は、もっぱら「異議を申立てる」人が行く制度ということになってしまう。ともかく、この選択肢があれば、白黒はっきりして、面白かったように思う(選択肢があったのかもしれないが、報告ではよく分からなかった。あったとしたら、0%に近いということだろう)。

 「関心がない」から投票に行かないが32%で一番多い。明確に賛成でも反対でもない人たちである。この人たちは、行政や議会の決定に一任した、お任せしたと評価するのが、一番素直だろう。住民投票において、この層の人がたくさんいたというのは、住民投票そのものが、そもそも民意の反映という点で、欠陥があった運営であったというのは、言い過ぎだろうか(この人たちも関心を持ち、投票できるような活動が必要ということではないか)。

 「不成立になると思った」から投票に行かなかったが26%である。これをどのように解釈すべきか。ここには、「反対だけども」と「賛成だけど」のどちらも混在しているのだろう。

 「投票したかったが投票所に行くのが不安だった」が12%いる。ここには、本当は反対なんだけれどもという人が数多くいるだろう。もちろん、賛成なんだけれども、面倒に巻き込まれるのは嫌だという人もいると思う。

 要するに、賛成や行政や議会に任せたと考える人は、投票に行かない傾向が強いというのは、この結果から見ることができると思う。

 つまり、行政や議会の方針とは違うと市民が多くいる場合は、自然に投票率が上がって、50%くらいは容易に越えるのではないか。50%を越えないというのは、反対の意見がさほど多くないという一つの証左ではないだろうか。その意味で、50%条項は、なかなか絶妙な制度である。

 逆に、50%条項をやめて、少ない投票率で、市民の意向を判断するのは、投票内容に偏りがあって(反対の人ばかりが意思表示をして)、判断を誤る恐れがあるということになると思う。

 言うまでもなく、誰だって、産業廃棄物処理場ができるのは、いやである。いいか、いやかを聞けば、いやが圧倒的に多いのは当たり前である。しかし、どこかに産業廃棄物施設をつくらなければ、産業も生活に成り立たないのも事実である。その折り合いをどこでつけなければならない。嫌だけども、仕方がないと考える人も、多くなるだろう。

 こうした事情を無視して、単純に、賛成、反対を投票して、決定するというのは、あまりに乱暴過ぎる。つまり、賛成と反対の間には、たくさんの選択肢がある。こうした条件を付ければ、仕方がないという選択肢もあるはずである。「こうした条件」を積み上げていって、WIN/WINにするのが、熟議である。面倒だけれども、こうした熟議をしなければ、私たちの社会は成り立たない。

 廃棄物処分場について反対をしたらどうなるのか。自分たちのまちでは嫌だけれども、東北や北陸などへ、財政的に貧しいところに持っていけばよいと考えるまちも実際にはたくさんある。地方分権は、こうした負の面も持っている(これは住民投票は、対案を示せないという一つの例である)。

 繰り返すと、50%条項は、行政や議会が決定した政策を変更するにあたっての、一種の担保・保険である。正式な代表組織が決めたことを変えるのだから、せめて50%は、越えてほしいというメッセージなのではないか。

 もちろん50%条項には問題もあるので、これを否定する理由もわかる。ただその場合は、それに代わる対案を示さなければ、答えにならない。なお、50%条項の廃止は、問題提起であって、対案ではないことは言うまでもない。

 福地さんの問題意識では、50%条項は民意を歪めるというものであるが、私の問題意識は、住民投票そのものが、民意を歪めるおそれがあるということになってしまう。民意を適切に反映した制度設計や実際の運用をいろいろ感考え、新城市などで実践したが、実に難しいというものである(研究会では政治的興奮に押し流されたとした)。

 このように考える、間接民主主義は、なかなか絶妙のシステムである。したがって、注力すべきは、行政や議会の政策決定をより合理的で、市民に寄り添うものとするための工夫や実践である。とりわけ議会の役割は重要である。話は、そこに戻ってくるように思う。

 この日の報告は、夜の6時からのスタートということであった。この日は、滋賀の大津で、議会事務局職員に対する研修講師を頼まれていたので、終わって、いつものように京都駅を走り、新幹線に飛び乗った。ほぼ6時に間に合い、報告を聞くことができた。

 久しぶりに、面白い報告を聞けたと思う。
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