読了 『私はリトルアインシュタインをこうして育てた』

2012-11-07 13:53:57 | 読書ログ
知人のサイト構築、引き渡すのにも結構色々な知識が必要なもんで、今日は朝の散歩で考えあぐねてしまいました。 というのも教えないとデータのやり取りも効率的でないし…

パソコンというのは知っていれば単純なことが知らないがゆえに複雑怪奇化します。テキストファイルでサクサク作業したいのに、フツーの人にとっては、文章を書くといえばワード。完全にマイクロソフトの思う壺ですね…

クラウドコンピューティングと言うのは、結局は自分のPCに依存せず、ネットに依存するという意味なのですが、
ネット環境がまたリテラシー格差が大きいですよね・・・ 日本ではなかなかフリーのネット環境が実現しません。

以前ドイツ人を家に泊めたとき、来てすぐ彼は我が家のLANのネットワークアドレスをほしがったのですがそりゃ
そうだろうなぁ…。メルボルンの大学に行ったときにまず一日目にやるのはネットワークに接続することでした。
これをやらないと何の情報も得られないのだから…

ところが、日本では知の殿堂、図書館でさえネットに閉鎖的です。あまり学ぶことに積極的でないんですよね。
特に大都会を外れるほどそうです。だからどこかの個人でやっているカフェとかそういうところがネット環境を提供していればそれなりに使いたい人はいると思うのですが…。

自分はどうやって分かるようになったのか考えると実はほとんど独学なんですよね。とくにコンピュータの基本的に仕組みに関しては。 ネットワークもそうですし… 本は一杯読みました。基本的なことに関しては変わらないので、今からでも仕組みについて理解しておくと後々の利便性が高いと思うんですが。

私は、英語、コンピュータリテラシー、趣味の登山やバレエ、ヨガまで、ほぼ独学でした。

つまりは教わったことが無いので教え方がわからないんですよね…(汗)

独学ということを考えると現代ほど知識が一般大衆に開かれた時代はないですね。

■ネットを味方につける

そして、その中でもネットを使いこなせるというのは、たとえ登山というようなまったくコンピュータとは
関係が無い知識を学ぶのでも、使いこなせるとこなせないのでは、学習のスピードに雲泥の差がある
ということを、
世間では、”情報のハイウェイ化”なんて呼んだりします。梅田望夫さんが書いていたと思いますが、本当にちょっと調べるだけで驚くほど大量の情報に接することができます。

例えば、昨日書いたプラサーダ料理についての解説は、現在日本語ではネット上にありませんでした。英語の
サイトを読んでから書いたのです。「ヨガ行者のお食事ってどんなものかしら?」程度の素朴な疑問でさえ
ネットに打ち込んで概要が分かる時代なのです。 もちろん、食べてみたものでなければ、その具体的な
ものは分からないわけなのですが…それでもまったく分からないのとは雲泥の差です。

■機会の平等=意欲の差

Googleの野心は世界中の情報をビットにしてしまうことだそうです。実際、それは具現化しつつありますね。

基本的にすべての情報がすべての人にオープンになる…と、それは教育の機会の差が限りなく小さくなる、ということですね。

この世の不平等というのは機会の差に大きく依存していたということを考えると、機会の差がなくなるということは
どちらかというと持たざる者であると自認するものにとって有利な状況のはずです。

独学は、先生につくのよりも難しいことですが、それでも機会の差が小さくなることを突き詰めれば、何で結局のところ、差がつくのか?

それは学習しようと言う意欲の差ではないでしょうか? つまり情報が開かれている世界と言うのは、意欲がある人に開かれている世界、になりますね。

それはむしろ世界を好ましい方向に向けるのではないかと私などは思ったりするのですが…。

子供がネットゲームに熱中するからと言ってネットを毛嫌いする人の気がしれません…
ネットをゲームに使うのも自由であれば、古典の名作を読むのに使ってもいいわけなんですから。道具が悪いのではなく道具をどのような目的に用いるのか?そこが人間性に左右されるというだけのような?

■ 読了 『私はリトルアインシュタインをこうして育てた』

私はリトル・アインシュタインをこう育てた

この本は9歳で大学に入学した日本人と韓国人のハーフでアメリカ人の男の子の母親の手記です。

決して天才児を育てようと教育ママになったわけではない、平凡な母親の非凡な努力が描かれています。

この本は大人で自己肯定感が低い人にもとても良いのではないかと思いました。おそらく人は世の中を生きていくのに、誰か1人自分を心から肯定してくれる人がいればよいのではないかと思います。

それは多分、子供の頃には親、長じてからは配偶者ということになるのでしょう。情緒の安定性の源というのは、どんなことがあっても相手にとって自分が最も重要な相手だという認識ですね。運悪く、配偶者がいない、ということであれば友人が、それでも誰もいなければ自分自身がそのようなとりでになるしかありません。

くじけない心を作るには誰かにはいつもわかってもらっているという安心感が必要です。その誰かが…私にとってはスーパーソウルなんですよね。今バクティ・ヨガのお坊様から文書をもらって一人納得しています。

《備忘録 引用》
・子供の半歩だけ先に立って教え、子供の能力を過小評価しないようにする
・心を安らかにし、学ぼうという姿勢で生活し、無農薬のものを食べ、旅行をし、いつも対話する。
・自信を失わせる言葉をいわない
・「子供は私達の所有物ではない。私達にしっかり面倒をみるようにと、神様からしばらくの間、
  預けられるのだから、子供がこの世で、幸せで実りある人生を遅れるように、愛し、尊敬しながら、
  祈りとともに育てていこう」
・どんな悪いことをしたのかしっかり分からせてから叱る
・体罰は与えない
・子供が理解し同意する範囲で規律を設け、守らせる
・父親として必ず実行すること
 独立して生きていけるよう勇気付ける
 今していることを賢く賢明に続けていけるよう手を貸す
 父親も失敗の多い人間であることを認めて、いつでも相談できる父でいる
 ポジティブな考え方を身につける
 神様が私達に与えてくれた恵みを大切にすることを教える。体を適切に管理して、金銭を有効に使い
 持っている才能と時間を有効に使うことを教える
・0~3歳までに旅行に連れて行く
・テレビを見せない
・母親は父親の、父親は母親の権威を害しない
・読み聞かせ 本を1日10冊
・音楽と美術教育を重視する

この本を読んで自分の子ども時代を振り返りました…私はぜんぜん天才ではありませんけれども、どちらかというと優秀な生徒の部類にあまり苦労せず入った部類です。弟がかなり勉強では苦労する割りに私は苦労しなかったので
なぜかなと考えると、自分でも小さい頃から読書好きだったことを思い出します。

でも一日10冊も読んだかな? 

幼児向けの絵本などはほとんど覚えていませんが、グリム童話全集あたりで貪るように字に飢えて、食品のパッケージまで丹念に読んでいたのを思い出します。

小学校の頃は、よく百科事典で課題を解いていました。 今、百科事典はネットになり…20年前に海外からもって
帰ってきたエンサイコロペディアとか、アメリカンヒストリーの本とかほとんど押し花の重し以外の用途を
持っていないような有様です(汗) いいかげん、なんとかしたほうがいいですよねぇ?

ネットで便利になってよかったなぁと思うものの、情報を得ることに対し、忍耐力が下ってこういう本を読む我慢強さに不足することを感じます…うーん?反省すべし?





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