ここ横須賀に来て早や40年は経つのでは?
当初 その温暖な気候に驚いたものである。カミさんは子供の喘息が治ったという。
我輩の「鼻毛の伸びが止まった」とも言っていた。
横浜とそのくらい自然環境が違ったようだ。今でもカミさんは
「横須賀に来て空が綺麗なのに驚いた」とよく言っている。東京、横浜とはさして離れていないというのに・・・・。
振り返れば40年前の当時は岩国に帰らねば・・・と言う大きな問題も抱えていたのだ。
それを回想すれば今は夢幻のような出来事の連日のように感じる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現役のころ田舎で一人で暮らす亡父に「一緒に暮らしたいのだが?」と言うメッセージを何度か伝えたが亡父は聴く耳を持たなかった。
会社の幹部の方からも亡父のもとに電話で「息子さんのところに来ては?」と言う説得の話が電話で直接 父に伝えられたが効果はなかった。
幹部の方からも「百姓をしていて土地から離れられないのなら事情は分かるのだがな~?」と私にも なんとなく非難めいた言葉を聴くようになった。
幹部から電話があると直ぐ その都度 父から私に「こちらに帰って来い」と言う強い言葉が返ってきた。当時は「会社を辞めるて帰るか?」「帰れば生活の手段は?」そのジレンマの続く連日だった。
岩国に帰る・・・ と言っても今の仕事を辞めなければならない。
果たしてふるさとに帰って仕事がみつかるか?・・・と言うことも心配であった。
それを父に言うと「何とかなる」と言うばかりであった。
母が亡くなって一年ばかり後だったか?
父が緊急入院したという連絡を会社の緊急連絡網から受けたのは伊豆の山奥の現場に呼ばれていて其処で行き詰まっている地下工事の根切り調査の真っ最中の時だった。現場を放置して直ぐには帰宅は出来なかった。
現場の仕事を終わらせて翌日 岩国に向かった。
病院にいる父の元に行くが既に意識は朦朧としていて私が行って数日で(入院20日間?)あっけなく父は旅立った。
その後 葬儀や諸々を済ませて再び会社に帰ったのは一ヶ月後だった。会社からもよくしていただいた。岩国まで直接の上司や会社の知り合いも来られたのだ。今では考えられない会社の対応だった。
・・・・・・・・・・・
あれからもう40年以上は経った。時の流れは速い。
どうやら この地に骨を埋める事態となった。
ここも住めば都か?
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発信箱:騒音のふるさと=大治朋子(外信部)(毎日新聞:発信箱)
http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20120327k0000m070120000c.html 以下全文
発信箱:騒音のふるさと=大治朋子(外信部)
何事も、疑問がわくと数字で確認してみたくなる。沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場近くで、戦闘機が空を切り裂くようなごう音で飛ぶのを見た時も、ふと思った。「この付近の人口は減っているに違いない」
宜野湾市役所で調べてみたが、事実はその逆。むしろわずかだが、増え続けている。飛行場は中心部にあり、面積は市全体の約4分の1。市内のどこも、騒音と無縁ではない。それでも、微増している。
さらに数字を追ってみる。転入・転出はともに減少傾向。増加の原因は死亡を上回る「出生」だった。多産と長寿、そして家族の絆を大切にする沖縄の文化。子供は結婚しても親と同居したり、近くに住み続けて地元にとどまることが多いという。
「軍用地主が多いから、地元に残るのではないか」。そんな疑問もわいたが、これも見当違い。普天間飛行場に土地を持つ地主は3000人余り。市総人口のわずか3%にすぎない。しかも国が支払う年間軍用地料の平均は200万円程度で、それだけで生計を立てるのは難しい。
先日、基地の近くに住む80歳のおばあの家を訪ねた。ひ孫らと8人暮らし。軍用地主ではない。騒音で会話はなかなか進まないが、これだけは聞き取れた。「騒音はいやだよ。戦争を思い出すからさ。でもここを離れて生きるなんて、考えたこともないさ。生まれ育った土地だからね」
半年前、ウクライナのチェルノブイリ原発跡地を訪ねて目にした光景を思い出す。放射性物質で汚染された土地に住み続け、農作物を植え、それを糧とするお年寄りたち。「汚染された土地」と呼ばれても、そこで命をまっとうしたいと願っていた。
騒音か転居か。二者択一を迫られる不条理の中を生きてきたおばあの言葉に、同じ心を見た思いがした。
毎日新聞 2012年3月27日 0時13分
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つぶやき
折角 育てた長男が期待したとおりにならず ふるさと を後にしたままとなっては育て甲斐もないというものだ。不肖の息子であった。それでも故郷の思い出は尽きない。
「リタイアの後は田舎に帰って畑を耕して過ごす」は会社にいたころの口癖だったが・・・。「畑があるのか?」と言う質問には「買うか?借りるか?だ」と答えていた。
しかし現実問題として私には畑仕事は向いていないようだ。夢を見ていたのですね・・・
故郷の空と故郷の土地の・・・・。今は小学校の友達も何人生きていることだろう。
当初 その温暖な気候に驚いたものである。カミさんは子供の喘息が治ったという。
我輩の「鼻毛の伸びが止まった」とも言っていた。
横浜とそのくらい自然環境が違ったようだ。今でもカミさんは
「横須賀に来て空が綺麗なのに驚いた」とよく言っている。東京、横浜とはさして離れていないというのに・・・・。
振り返れば40年前の当時は岩国に帰らねば・・・と言う大きな問題も抱えていたのだ。
それを回想すれば今は夢幻のような出来事の連日のように感じる。
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現役のころ田舎で一人で暮らす亡父に「一緒に暮らしたいのだが?」と言うメッセージを何度か伝えたが亡父は聴く耳を持たなかった。
会社の幹部の方からも亡父のもとに電話で「息子さんのところに来ては?」と言う説得の話が電話で直接 父に伝えられたが効果はなかった。
幹部の方からも「百姓をしていて土地から離れられないのなら事情は分かるのだがな~?」と私にも なんとなく非難めいた言葉を聴くようになった。
幹部から電話があると直ぐ その都度 父から私に「こちらに帰って来い」と言う強い言葉が返ってきた。当時は「会社を辞めるて帰るか?」「帰れば生活の手段は?」そのジレンマの続く連日だった。
岩国に帰る・・・ と言っても今の仕事を辞めなければならない。
果たしてふるさとに帰って仕事がみつかるか?・・・と言うことも心配であった。
それを父に言うと「何とかなる」と言うばかりであった。
母が亡くなって一年ばかり後だったか?
父が緊急入院したという連絡を会社の緊急連絡網から受けたのは伊豆の山奥の現場に呼ばれていて其処で行き詰まっている地下工事の根切り調査の真っ最中の時だった。現場を放置して直ぐには帰宅は出来なかった。
現場の仕事を終わらせて翌日 岩国に向かった。
病院にいる父の元に行くが既に意識は朦朧としていて私が行って数日で(入院20日間?)あっけなく父は旅立った。
その後 葬儀や諸々を済ませて再び会社に帰ったのは一ヶ月後だった。会社からもよくしていただいた。岩国まで直接の上司や会社の知り合いも来られたのだ。今では考えられない会社の対応だった。
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あれからもう40年以上は経った。時の流れは速い。
どうやら この地に骨を埋める事態となった。
ここも住めば都か?
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発信箱:騒音のふるさと=大治朋子(外信部)(毎日新聞:発信箱)
http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20120327k0000m070120000c.html 以下全文
発信箱:騒音のふるさと=大治朋子(外信部)
何事も、疑問がわくと数字で確認してみたくなる。沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場近くで、戦闘機が空を切り裂くようなごう音で飛ぶのを見た時も、ふと思った。「この付近の人口は減っているに違いない」
宜野湾市役所で調べてみたが、事実はその逆。むしろわずかだが、増え続けている。飛行場は中心部にあり、面積は市全体の約4分の1。市内のどこも、騒音と無縁ではない。それでも、微増している。
さらに数字を追ってみる。転入・転出はともに減少傾向。増加の原因は死亡を上回る「出生」だった。多産と長寿、そして家族の絆を大切にする沖縄の文化。子供は結婚しても親と同居したり、近くに住み続けて地元にとどまることが多いという。
「軍用地主が多いから、地元に残るのではないか」。そんな疑問もわいたが、これも見当違い。普天間飛行場に土地を持つ地主は3000人余り。市総人口のわずか3%にすぎない。しかも国が支払う年間軍用地料の平均は200万円程度で、それだけで生計を立てるのは難しい。
先日、基地の近くに住む80歳のおばあの家を訪ねた。ひ孫らと8人暮らし。軍用地主ではない。騒音で会話はなかなか進まないが、これだけは聞き取れた。「騒音はいやだよ。戦争を思い出すからさ。でもここを離れて生きるなんて、考えたこともないさ。生まれ育った土地だからね」
半年前、ウクライナのチェルノブイリ原発跡地を訪ねて目にした光景を思い出す。放射性物質で汚染された土地に住み続け、農作物を植え、それを糧とするお年寄りたち。「汚染された土地」と呼ばれても、そこで命をまっとうしたいと願っていた。
騒音か転居か。二者択一を迫られる不条理の中を生きてきたおばあの言葉に、同じ心を見た思いがした。
毎日新聞 2012年3月27日 0時13分
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つぶやき
折角 育てた長男が期待したとおりにならず ふるさと を後にしたままとなっては育て甲斐もないというものだ。不肖の息子であった。それでも故郷の思い出は尽きない。
「リタイアの後は田舎に帰って畑を耕して過ごす」は会社にいたころの口癖だったが・・・。「畑があるのか?」と言う質問には「買うか?借りるか?だ」と答えていた。
しかし現実問題として私には畑仕事は向いていないようだ。夢を見ていたのですね・・・
故郷の空と故郷の土地の・・・・。今は小学校の友達も何人生きていることだろう。
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