栞(シオリ)の硬さには苦労する。
特に「文庫本」の場合、栞が余り硬いとページが捲(メク)れない。
逆に柔らか過ぎたり栞の厚さが薄過ぎると本の間に挟んだ心算の栞が見つからなく困る。
栞の場所が分からないのも、また、時として栞に腹を立てる。
丁度よい柔らかさの紙の栞が中々見つからない。
今まで、よかったのは津和野で求めた日本紙(楮)で作られた手作りの栞であった。
ところが、この栞も何処で落としたのか何時しか無くなった。
文庫本は大体持ち歩くために電車などに乗って立ち読みをして居ると気づかないうちに落としたりして、いざ本を閉じて栞の差し替えをしようとしてみると鋏んだ栞が無くなっている。
足元の床を見て探すが既にない。
この和紙による栞でも紙の厚さが厚いとダメである。
丁度よい硬さで頁を捲るのに差し支えのない栞は和紙に限ると思う。
ところが、これが 中々見つからないのだ。
文房具店に行って、何気なく栞を探すが殆ど硬過ぎるものが多い。かと 言って栞がないと、これまた困る。
その時には読んでいるページを折って凌ぐが、これも日にちが経つと、シッカリと折れ目が付いて、いざ読んだページを開こうとしても分からなくなっている。
最近は本を求めた書店で1冊に対して2~3枚 其処に置いてある無料の栞を貰ってくる。
これは無料であるが少々硬い。
ページが捲れない、そこで一時しのぎで他の適当な場所に鋏んで置く。
この抵当な処に鋏むのが失敗の元である。
本を読んでいると時間を忘れる。
ふと、気が付くと我輩の降りる駅である。
何しろ我輩は耳が聞こえない。
聞こえるのは雑音である。
而して、補聴器を外す。周りは静かになり本を読みやすくなる。
頼りはおメメである。慌てて降りること再々で、次に本を開けると、なんだか頭の中の筋書きと繋がらない。
途上人物は判るが話の筋が通らないのだ。
電車から降りた時に何時もの間違いをして居ることに気が付き、ハテ 読んでいたのは、何処だったかと探すが中々分からない。
エイ!と最初からまた読み始める。
然し一旦読んだところは、先の進展が分かり、興味が薄れる。
そこで、その本は我輩の頭の中で没(ボツ)となる。
つまり、もう読まないのだ。
読みかけの本が溜まるというわけだ。
困るのは、どの本が完全に読んだ本か?読みかけの本がどれかガ分からないのだ。
山と積んだ本はカミさんが何時の間にか整理して何処かに仕舞ってしまう。
目障りだ!と言う。
「おい、あの本何処にやった?」と何時も聞くが
「知らないよ」の一点張りだ。
何しろ自分に関係のない本は片っ端から片付けられるのだ。
片付けた本の題名などお構いなしだ。
喧嘩にならない。
栞一枚でなんと文句が多いのだろう?
今日もブツ・ブツ文句を言いながら本を読んでいる“くそ爺”である。
そうは言っても幾ら読んでも本の内容が頭に入らないのだ。
今、何を読んだのかさえ思いださない。
我輩が今 抱えている問題は、それ所ではないのだ!
頭がフリーズしているのだ。
24時間 頭から離れない!
頭の中を駆け巡っている事実は、まるで「メビュウスの輪」の上のレールを走っているようだ!
我輩の頭の中に栞が欲しい!
退職してからは特にその傾向にあります。
何か読んでいないと気が落ち着かないだけです。
カミさんは漢字クイズに夢中です。暇さえあれば、ひがな一日中やっています。