長内敏之のブログ

その日の出来事など、いろいろ

宝塚歌劇団と日本共産党 須藤五郎さんのこと

2011-03-15 22:23:44 | インポート
 早く、避難所へ食事や温かいものを届けてください。
 救援に行った人達はがんばっていると思いますが、何とか食事と暖を届けてください。
 


訪問先で、元宝塚の女優さんという高齢の女性にお会いしました。
 とても元気ないいおばあさんなので話が盛り上がってしまいました。
 ところで、日本共産党と宝塚歌劇団は関係があるのですよ。と切り出して、須藤五郎さんの話をしました。
この方は、私が東京に出てきた頃は既に現役の役員は退いていたとおもいますが、顔は知っていました。
 
 須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は日本の音楽家、政治家。
元日本共産党参議院議員(4期)。
 筆名は鳥羽英夫。

 ウキペデアの内容をご紹介します。少し読みやすく変えています。
 私が 聞いていたのは、有名な宝塚の音楽家だったということです。

 三重県鳥羽市出身で、旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任しました。
 1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄されました。
  留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦されました。
   戦後は宝塚労働組合を結成し、委員長となる(副委員長は春日野八千代・天津乙女)が不当解雇されました。
 1948年に 共産党に入党、1949年11月に大阪で結成された「関西勤労者音楽協議会」(関西労音)の初代会長。
 1950年6月4日の第2回参議院議員通常選挙で全国区から出馬し初当選。以後1959年、65年、71年の各参院選において、初当選時と同じく全国区から立候補し当選を果たしました。
 この間党内では国会対策委員長や名誉中央委員なども歴任しました。
 また、芸術家としての立場から、同僚の瀬長亀次郎、古堅実吉両衆院議員らとともに、国立劇場おきなわ(沖縄県浦添市で2004年1月開場)設立に尽力したことでも知られています。
 
 宝塚歌劇団 學生通辯(1924年) マルファの昇天(1925年) 寅童子(1926年) 孔雀物語(1927年) モリーの婚禮(1928年) 名馬する墨(1942年) 日本の四季(1945年) 

映画

女学生と兵隊(1940年、宝塚映画) 甲賀屋敷(1949年、新演伎座) お富と与三郎(1950年、新演伎座) 風雲金比羅山(1950年、松竹京都撮影所) その他

豊中市歌 - 同市市制10周年記念として、1946年に公募した市歌の歌詞に、当時市内在住の須藤が曲を付け翌年発表。

参考文献
『君泣くやおなじ心に 宝塚・労音・わが道』須藤五郎(民衆社、1988年11月刊)
「新訂 政治家人名事典 明治-昭和」(日外アソシエーツ、2003年)
『水晶の夜、タカラヅカ』岩淵達治(青土社、2004年11月刊)


 この中で、私は、小林多喜二さんの弟さんの三吾さんのことをおもいだしました。
私が、東京に出てきた時に、日本共産党の後援会の中に、北海道の会というのがあって、大いに盛り上ったのですが、その席に、多喜二さんの弟さん、三吾さんが来ていました。
 多喜二さんは、歴史上の人物ですがその弟さんか目の前にいると、とても感激したのを覚えています。
多喜二の映画や小説のように、多喜二さんからバイオリンを買ってもらって、それを大事にして練習をして、確か、東京交響楽団のバイオリニストになるのです。 感激して、握手をしてもらった覚えがあります。
確か、亡くなってすいずいぶんと経ちます。
 もうすぐ3月18日がきます。
 毎年、青山墓地の無名戦士の墓で、式典が行なわれます。
 最近も、大変お世話になった地域の方が亡くなられました。
 まったく関係が無い話ですが、黒柳徹子さんのお父さんもたしか、東京の交響楽団のバイオリニストではなかったですか。同じ交響楽団か、それとも違うのか、もしかしたら接点はあったのか、なかったのか、わかる方教えてください。


 


原発の説明の情けないこと

2011-03-15 20:18:01 | まち歩き
 テレビでの原発の現状説明をしている東電の担当者の情けないこと、この上ない。
なにを言っているか、奥歯にものが挟まった、とはこのことです。
 このような人達に原発の責任を託していたのですね。
もちろん、同様に、原発推進してきた方々の責任はまぬがれません。
 自民党、公明党、民主党も東電も、もちろん傲慢な一部の学者たちも、あるいは、それらに協力してきた自治体の責任者もです。
 そうは言っても、今この瞬間は、爆発を抑えることに全力をあげてもらいたい。
 しかし、必死にガンバッテいるだろう現場の作業員、研究者などは、被曝されているだろう。家族の方も心配だろう。大変な苦労です。暴れ原発に立ち向かっている作業員、研究者の方たちに敬意を表します。
 無事に戻ってこられることを心から願っています。

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地震の最中に、5小の生徒達が、避難してきました。ゆれる庁舎の委員会室から撮りました。これは、2度目のゆれです。
防災頭巾をかぶって、大変冷静に、きちっと避難していました。先生たち、すばらしかったですよ、大変お疲れ様でした。日頃の心がけですね。あるがとうございます。