濱口義立。彼が生きていた時代は,幕末から明治にかけての、激動の時代なのです。
そして、その時代に淡々と生きて、最晩年になって、思い切った決断をするのです。
今でも思うのですが、何で??。
そんなことをしたんだろうか。背景について考えてみたのです。
彼が生まれた濱口家は、高知県安芸郡田野町の奈半利川沿いの荒地を開墾することで農地化したのです。農業をする前に、川を制することを家業としてきたのです。そうした経験をかわれての、「奈半利川筋普請役」だったのではないか。それだからこそ「白札」だったのです。
土佐藩からしっかりとした評価を受けてきた現実があったのです。
高知県東部地域の有意の青年達は、全国に雄飛して勉学に励むのです。そうしたことが容易に認められる時代だったのです。そして庄屋同盟や郷士たちによる儒教思想が定着してゆくのです。特に「知行合一」を掲げる陽明学による影響は多大なものがあったのです。尊王攘夷運動や勤皇に向かう社会が醸成されていったのです。かれも安田浦の高松小埜や岡本寧甫の塾に出入りして知識は吸収し、その塾で多くの活動家となる人材と知遇を得るのです。
しかし、濱田義立は動きませんでした。ただひたすら自らの仕事に励むのです。
野根山屯集事件の首領清岡道之助とは、年齢は1歳違い。同じ郷士の家に生まれて、同じ社会状況の中で育っていくのです。さらに彼の妹が道之助に嫁すのですから義兄弟です。
彼は、尊王攘夷運動にも参加せず、当然のごとく野根山には行きませんでした。
ただ、道之助等志士達の亡き後、残された家族達の相談役であったのでしょう。
明治維新の社会変動にも動じることなく、自分の出来ることを着実にこなしてゆくのです。ただ、2人の息子を早世させてしまったことで、50を過ぎてから、娘・夏に養子を迎えるのです。「家」の存続についても、しっかりとした選択をするのです。高知の五台山から”雄幸”をむかえます。”
明治の時代になっても、自由民権運動にも参加した形跡はありません。全国に先駆けて始まった運動なのです。多くの仲間達が政党に分かれて争っていた時期にも、彼は声を張り上げたりはしなかったのです。
腕もあり、財もあり、人望もあったのです。ただ彼がそうした選択をしたのです。
しかし、なぜ北海道だったのでしょうか。開拓するだけなら近在にも候補とする場所はあったのです。しかし彼は北海道。厳寒の北海道に行ってしまうのです。楽隠居を決め込んでもいい立場であったはずなのですが。
昭和の初期に「満州へ行こう。」といった風潮がありました。ブラジルなどの南米に移民をする事業にも多くの人が参加をするのです。しかし彼は北海道だったのです。
北海道でないといけなかったのでしょう。たぶん彼は戊辰戦争を引きずっていたのです。
尊王攘夷運動から討幕運動、さらに明治の新政府が機能し始める時期に戊辰戦争の最後の場所に向かうのです。「俺にも何かやれることがあるだろう。」「新しい世に、なにかやれることがあるはずだ。」
それは、日本のなかでも、これから開拓を必要としていた、北海道だったのです。
あの場所だったら、自分の治水事業の経験や自治組織運営の経験が活かされると思ったと思うのです。
私は、彼が自分の意思を貫き通した事への後悔から、死を意識して北海道に向かったとは思いたくないのです。何かをなすために、俺にしかやれないことをなすために、北海道に妻を伴って出かけるのです。
死に場所探しだったら、妻は同行しないと思うのです。そういう人だと思います。
彼がかの地でなしえるであろう栄誉を、妻と共有したかったのです。
彼は、翌年北の空の下で、人生を終えます。体が彼の意思に反したのです。
彼が、かの地で何をなしたか、定かではありません。
彼の死後、妻・幾子は子供達(雄幸・夏)の元に向かいました。静かな余生であったことでしょう。
そして濱口家は雄幸の孫が正田家に嫁ぐことで、天皇家に繋がることになります。
着実な人生だったのではないでしょうか。いい人生を過した方かと思います。
そして、その時代に淡々と生きて、最晩年になって、思い切った決断をするのです。
今でも思うのですが、何で??。
そんなことをしたんだろうか。背景について考えてみたのです。
彼が生まれた濱口家は、高知県安芸郡田野町の奈半利川沿いの荒地を開墾することで農地化したのです。農業をする前に、川を制することを家業としてきたのです。そうした経験をかわれての、「奈半利川筋普請役」だったのではないか。それだからこそ「白札」だったのです。
土佐藩からしっかりとした評価を受けてきた現実があったのです。
高知県東部地域の有意の青年達は、全国に雄飛して勉学に励むのです。そうしたことが容易に認められる時代だったのです。そして庄屋同盟や郷士たちによる儒教思想が定着してゆくのです。特に「知行合一」を掲げる陽明学による影響は多大なものがあったのです。尊王攘夷運動や勤皇に向かう社会が醸成されていったのです。かれも安田浦の高松小埜や岡本寧甫の塾に出入りして知識は吸収し、その塾で多くの活動家となる人材と知遇を得るのです。
しかし、濱田義立は動きませんでした。ただひたすら自らの仕事に励むのです。
野根山屯集事件の首領清岡道之助とは、年齢は1歳違い。同じ郷士の家に生まれて、同じ社会状況の中で育っていくのです。さらに彼の妹が道之助に嫁すのですから義兄弟です。
彼は、尊王攘夷運動にも参加せず、当然のごとく野根山には行きませんでした。
ただ、道之助等志士達の亡き後、残された家族達の相談役であったのでしょう。
明治維新の社会変動にも動じることなく、自分の出来ることを着実にこなしてゆくのです。ただ、2人の息子を早世させてしまったことで、50を過ぎてから、娘・夏に養子を迎えるのです。「家」の存続についても、しっかりとした選択をするのです。高知の五台山から”雄幸”をむかえます。”
明治の時代になっても、自由民権運動にも参加した形跡はありません。全国に先駆けて始まった運動なのです。多くの仲間達が政党に分かれて争っていた時期にも、彼は声を張り上げたりはしなかったのです。
腕もあり、財もあり、人望もあったのです。ただ彼がそうした選択をしたのです。
しかし、なぜ北海道だったのでしょうか。開拓するだけなら近在にも候補とする場所はあったのです。しかし彼は北海道。厳寒の北海道に行ってしまうのです。楽隠居を決め込んでもいい立場であったはずなのですが。
昭和の初期に「満州へ行こう。」といった風潮がありました。ブラジルなどの南米に移民をする事業にも多くの人が参加をするのです。しかし彼は北海道だったのです。
北海道でないといけなかったのでしょう。たぶん彼は戊辰戦争を引きずっていたのです。
尊王攘夷運動から討幕運動、さらに明治の新政府が機能し始める時期に戊辰戦争の最後の場所に向かうのです。「俺にも何かやれることがあるだろう。」「新しい世に、なにかやれることがあるはずだ。」
それは、日本のなかでも、これから開拓を必要としていた、北海道だったのです。
あの場所だったら、自分の治水事業の経験や自治組織運営の経験が活かされると思ったと思うのです。
私は、彼が自分の意思を貫き通した事への後悔から、死を意識して北海道に向かったとは思いたくないのです。何かをなすために、俺にしかやれないことをなすために、北海道に妻を伴って出かけるのです。
死に場所探しだったら、妻は同行しないと思うのです。そういう人だと思います。
彼がかの地でなしえるであろう栄誉を、妻と共有したかったのです。
彼は、翌年北の空の下で、人生を終えます。体が彼の意思に反したのです。
彼が、かの地で何をなしたか、定かではありません。
彼の死後、妻・幾子は子供達(雄幸・夏)の元に向かいました。静かな余生であったことでしょう。
そして濱口家は雄幸の孫が正田家に嫁ぐことで、天皇家に繋がることになります。
着実な人生だったのではないでしょうか。いい人生を過した方かと思います。