ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

幕末の独眼流。2

2010-06-12 04:15:59 | 高知県東部人物列伝
 独眼流と称された清岡道之助は、坂本龍馬や中岡慎太郎と比べて全国的な知名度はありません。が。
 歴史に”もし”はないのですが、もしと考えることがあるのです。もし野根山を越えて脱藩に成功していたら、その後の彼らの活動はいかなることに・・・。

 期待してみたくなるような23人の志士達なのです。その首領は、清岡道之助。

 彼は、左目が不自由なだけに武術の修行より、学問の修行を優先するのですが、佐藤一斎の塾を3年程で出るのです。彼の勉学振りは評判となるほどでしたが、父親が病没するなどして、帰郷することになります。

 「濱口の旦那は物好きだ、美人の金さんを、片目の男にやるとは・・。」道之助が美人の誉れ高い、濱口源次郎の娘と結婚したときの話です。ただ源次郎は「日本一のむこ殿。」といって喜んだという。道之助のことを考えるとき、いいエピソードです。
 
 中央の情勢は刻々と変化してゆくこともあり、何度か関西へと往復するのですが、文久2年(1862)12月京都で武市瑞山と、清岡治之助のとりなしで面談します。彼の後半生が決まってしまうのです。
 学問で身を立てる筈の道之助が、武市の持論。「藩論統一による尊皇攘夷」に傾倒してゆきます。
 土佐という閉鎖社会においては、藩主の意見は絶大で、武市以下の志士達が投獄されたことで、環境変化が起こるのですが、ここから又、道之助の真面目さ、正直者振りが発揮されるのです。
 彼らは、単に武市を、仲間を救いたかったのです。土佐全域からの仲間を集めて藩に意見具申をすれば、なんとかなると本当に思っていたのです。しかしそうはなりませんでした。
 藩からすると、武器を携えて野根山に屯集したのですから、反逆者の烙印を押してしまいます。結果として、彼らは状況判断が出来なかったことになります。
 ただ、たった23人の行動に藩は恐れおののいたのです。

 彼らは武器を持ちながら戦わず、言論によって対抗しようとしたのです。
 結果。死罪。多分インテリでありすぎたのです。

 のち、戊辰戦争で土佐藩は大きな成果を上げます。掛川から土佐へ、山内候は徳川幕府に恩顧を感じていたのでしょうが、新しい時代の到来に、竿をさし続けることはなかったのです。
 野根山屯集事件においては、23人の志士たちは誰も救えなかったのです。
 彼らの組織は、彼らの評価より藩のそれの方が高かったといえます。
 そして土佐藩においては、ありえないことが起こったと、過剰反応を起こしたのです。
 
 どこかの大学教授が、中岡慎太郎を評して、「戦闘的民族主義者」といいました。
 しかしながら、23人の挑戦者は、けっして戦闘的ではありませんでした。
 彼らは行動的民族主義者、提案者だったのです。
 彼らの行動をきっかけにして土佐は変わってゆきます。公武合体から倒幕に向かいます。
 そして自由民権運動に発展してゆくのです。
 
 もし、もしですが、清岡道之助が明治の時代に自由民権運動に参加していたとしたら、
・・。そんなことを考えております。
 彼は、武力より学にて身を立てたかったのですから。
 
 

 

 

 

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2 コメント

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佐藤一斎の弟子ですか (黄昏爺)
2010-06-12 13:25:22
お邪魔してます。
佐藤一斎の弟子といえば、佐久間象山や吉田松陰と同列に位置するわけですか?
佐久間象山-->勝海舟-->坂本龍馬という師弟関係だとすると、龍馬より2段階上の修行者ということになるのですね!
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同列ですか? (ふくろう親父。)
2010-06-13 11:38:37
同列といわれると、つらいですね。
彼の弟子は、山田方谷、佐久間象山。以下渡邊崋山。横井小楠・・門下生3000とも6000とも言われているのです。
 一つの基準で考えると、道之助は、昌平坂学問所に入ってはいないのです。岡本寧甫の紹介で江戸に向かっておりますから、一斎の私塾に入っていたのです。同列とは思いませんが、門下生の一人だと考えております。
 直接指導を受けていたのです。彼には一斎から「可談者雪月華 可黙者酒色財」と贈られています。辞する際のことです。
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